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① 地理の会が「ジオ展2024」に出展します。
(画像をクリックすると「ジオ展2024」にリンクします。)
② 「2024年の活動予定」を更新しました。
 
REPORT

会員の地理活動

ネット公開

1 東日本大震災での高速交通機関の補完関係と復興期における動向
2 公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり
3 海外地理紀行
(項目をクリックするとリンクします。)
 

YouTube公開

公益社団法人日本地理学会地理学のアウトリーチ研究グループYouTube動画ブロジェクトチームによる中高生むけ地理学紹介動画プロジェクトとして公開されました。
「【仕事で地理が生きる】公務員の仕事にも生きる地理のライフワーク」
(クリックするとリンクします。)
 

 本の出版

1「自然災害と大移住」(幻冬社ルネッサンス新書
2「地理マニアが教える旅とまち歩きの楽しみ方」(ベレ出版) 
3「みちびと紀行 街道を歩く一人旅」(Amazon
4 「新版 空の旅の自然学」(古今書院
(出版元をクリックすると紹介ページにリンクします。)
  
 


 
REPORT

活動予定

地理の好きな人々のための巡検及び講演会(外部及びメンバーによる)を開催しています。各行事はメンバー同士のネットワークを広げられる場としても喜ばれています。

 

2024年

3月16日(土)♪『春の空想地図カフェで ”地理なひととき”を!』 開催済 
(後日、イベント報告予定)
4月19日(金)「ジオ展2024」に出展
4月21日(日)地理の会巡検23区シリーズ第18回「渋谷区」
7月頃    地理の会交流会(オンライン)
9月〜11月  ジオパーク(地形、地質、地学など)巡検
11月〜12月   地理の会巡検23区シリーズ第19回「荒川区」 
 


 
活動報告

活動報告

過去の活動報告
2022年2021年2020年2019年2018年2017年巡検地一覧


 2023年

地理の会交流会(オンライン)

1. 日時:2023年12月3日(日)15:00〜16:45
2. 開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3. 出席者:22名
 
4. 内容:
4-1 会員からの情報提供
4-1-1  「高輪築堤」

 

・東京新聞TOKYO Web 2023.11.16「高輪築堤の可能性がある石垣、JR田町駅付近で出土 羽田アクセス線のルート上」より抜粋
・東京新聞TOKYO Web 2023.7.21「高輪築堤 由来に異論『軍の反対で海上に』は誤り?」より抜粋
 
① JR東日本の田町駅周辺で見つかった、高輪築堤(1872年・明治5年、日本初の新橋〜横浜間の鉄道開業に合わせて造られた)の一部ではないかと思われる石垣についてお話して頂きました。
 
② 東京新聞の記事より
東京新聞TOKYO Web 2023.11.16(クリックするとリンクします。)で取り上げられていますが、JR東日本の田町駅地域の近くで、高輪築堤の一部ではないかと思われる石垣が見つかりました。以前に見つかったのは、JR東日本の高輪ゲートウェイ駅の北側のところですが、1つ先の田町駅の近くで見つかったということです。東京新聞の記事によると見つかった場所は、江戸時代に薩摩藩が東京湾沿いに構えていた屋敷の跡とも重なるので、区教委の担当者によると、石垣は高輪築堤と薩摩藩邸のどちらかの可能性があるということです。もう少し調べてみなければわからないということでした。
また、東京新聞TOKYO Web 2023.7.21(クリックするとリンクします。)には、高輪ゲートウェイ駅周辺で発見された高輪築堤についての記事があります。明治時代の古地図を用いて説明があり、高輪築堤の由来の通説について研究者3人の意見が述べられています。その研究者のひとり明治大学・松山恵教授の論文に着目しました。
 
③ 古地図を用いて位置関係の検証
・松山先生が書かれた論文というのがネット上で公開されています。松山恵, 「明治初年東京における武家地処分と鉄道敷設事業」,駿台史学(176), 1-27 (クリックすると文書をダウンロードします。) この論文の中に東京府内における鉄道敷設事業の対象地を説明してある、「明治二己巳年改正東京大絵図」(東京都公文書館所蔵)があります。
・これを参考に、open-hinata の地図アプリを用いて明治9年「東京全図」と現在の空中写真を並べたもの(クリックするとリンクします。) を見ると海上に線路が敷設された様子がはっきりと分かります。古地図を拡大すると、現在の田町駅の周辺に「御用地」を確認できます。この「御用地」と周辺の海を埋め立てたところに線路が敷かれていたようです。
・次に、明治二己巳年改正東京大繪圖, 吉田屋文三郎, 1869,国会図書館デジタルコレクション(クリックするとリンクします。)、鉄道を作る前の地図があります。まだ線路はありませんが、薩摩藩の屋敷があり、海に突き出た形の部分を薩州蔵邸と書いてあります。ここの部分が先に説明した「御用地」に相当すると思われます。東京新聞の記事で、今回見つかった石垣が本当に鉄道のために造ったものなのか、あるいは薩摩藩のものであったのか、まだ特定されていないようですけれども、このような位置関係にあるということがわかりました。
 
④ 石垣の発見経緯
これが見つかった原因になったというのが、しばらく前から使われなくなっていた貨物線をJR東日本が羽田空港に延ばす線として活用し整備をするために、田町駅周辺の線路の工事を始めたら、今回、発見されたということです。
 
⑤ その他の鉄道遺構
全く場所が異なりますが、JR九州鹿児島本線の初代門司港駅の遺構が発掘されています。また、お茶の水橋のところで古い市電のレールが出たとか、韓国のソウルで、昔の市電のレールが出たという話があちこちで報告されています。いろいろ調べてみると面白いなと思っています。
 
4-1-2  「江戸の坂巡り」
① 2022年4月よりNHK学園オープンスクール「江戸の坂」に、現在まで17回参加し現在も参加継続しています。今回、その中で通勤途中見ていた坂を実際に訪れて、その坂の地形・歴史的背景についてお話して頂きました。
 
②2023年6月20日開催の「南元町~若葉(新宿区)界隈の坂めぐり」
JR東日本の信濃町駅を出発して四ツ谷駅到着の約3時間コースで「江戸の坂」巡りをしました。武蔵野台地、内陸部の谷に形成された坂を登り降りして、江戸時代の屋敷跡、寺社、その地ゆかりの人物について学びました。巡った坂で、以前、通勤電車から眺めた坂に出会いました。坂の名前は、「新助坂」です。坂の名前の由来ですが、坂の近くに新助という名前の人が住んでいたとことです。いつの時代の人かわかりませんが、明治30年代中頃の書物『新撰東京名所図会』に「新助坂」の名前が記載されています。
 
③ 通勤電車から眺めた「新助坂」
 かつて通勤していた朝の風景 は、JR中央線快速、東京方面上り、信濃町〜四ツ谷間で見たものでした。その風景は狭く急坂で、坂を降り立った場所は狭い窪地でした。晴れた日はともかく、曇りや雨の日は、暗く鬱陶しい感じでした。さらに朝の会社通勤時の憂鬱な気分(ラッシュアワー・仕事への不安)が、この風景を眺めるとさらに憂鬱だったことを覚えています。
 
④  新助坂周辺の地形

・『スーパー地形』(スーパー+地図)
「新助坂」周辺の地形は、台地から一気に降下する谷に坂が有り、谷底は狭い窪地です。また、盛り土による中央線敷地に挟まれて、さらに狭くなった窪地を形成しています。
 
⑤ 新助坂周辺の歴史背景(「江戸町巡り」より抜粋)

・『大江戸今昔めぐり』(江戸後期)
・1591(天正19)年、徳川家康が江戸城に入ると、同年11月18日に鷹場に指定されました。谷間の湿地帯のため開発が遅れたが、1634年(寛永11)江戸城外堀の開削に伴い服部半蔵の墓のある西念寺は現在地に移転し、1664(寛文4)年に谷間が伊賀者組屋敷となりました。
・1693(元禄6)年か1696(元禄9)年、「鮫河橋南町」と改称して町奉行支配地となりました。鮫河橋の低湿地は当初より劣悪な住環境でした。また、本来伊賀者の土地であったため、町人に家持が不在のまま店借の貧困層が集中し、治安の悪化を招きました。
・1702(元禄15)年の吉原訴訟書上に「鮫ヶ橋」の名が出ており、当時から売春宿があり江戸時代中期には岡場所として知られ、後期には夜鷹屋が存在しました。
・1860(万延元)年の「藤岡屋日記」に極貧者の集まる町として四谷鮫河橋、現在の東・北上野、港区浜松町、が挙げられていました。この3町は明治時代に農村から流入した貧困層が集住してスラム街が形成され、江戸・東京の三大貧民街(スラム街)と呼ばれていました。
・明治末年頃には地価が上昇して貧困層は転出して行き、関東大震災を経て貧民街の面影は全く見られなくなりました。
・1911(明治44)年、「鮫河橋」の名はスラムとして有名であったことからか冠称を外しました。
・1943(昭和18)年、南元町を起立しました。
 
⑥ 坂の風景
朝の通勤ラッシュと仕事への不安があったことに加えて、この「新助坂」の景色を見て憂鬱になった理由に、地形(急坂、谷間)・歴史的背景(江戸・明治初期のスラム街)も要因だった気がしています。
 
 
4-2 会員発表「文明の十字路イランを訪ねて」
 
① イランの旅
中国の河西回廊からスタートしシルクロードを踏破するというグループからお誘いを受けて去年のウズベキスタンから参加しています。今回、10日程度のイランの旅に参加していろいろ見聞きしたことを中心にお話して頂きました。
 
 
② イランの概要
イランの首都はテヘランです。面積は広い国で日本の約4.4倍です。人口は1960年代ぐらいまで3000万人が、現在は9,000万人になり若者が多い国です。民族構成はペルシャ人が約50%、アゼルバイジャン人が約25%、それからクルド人・アルメニア人も多く住んでいます。我々日本人には民族の区別は分かりませんでした。
 
③ 政治体制
イランは共和国体制ですが、政治体制というのは非常に独特なものです。議会があって大統領がいて司法もありますけど、イランの独特なところはイスラム最高指導者の存在です。イスラム教の最高指導者が全ての決定を最終的にするようになっています。
 
④ 経済
行ってびっくりしたのは、1ドルが約40万リアル(中東諸国の通貨単位)です。アメリカかからいろいろ経済制裁を受けていて、なかなか苦しいのじゃないかと思いますが、我々旅した限りではバザールには色々多くの物がありますし、乞食もいませんでした。経済的には困っていると思いますけど、我々の感じでは解らなかったというのが率直な感想でした。
 
⑤ 歴史
イランは、世界の一つの中心だったようなところです。5000年の歴史があります。アケメネス朝ペルシャが有名で、紀元前500年頃からペルシャの歴史が始まっています。その後、ギリシャのアレキサンダー大王の遠征・ローマ帝国、いろいろ西から東から支配者が入り乱れました。ペルシャ人が幸せじゃなかったような時代もありました。その後、ペルシャ人が主役として、ササーン朝・サファビー朝、近年まで王朝の国家だったです。パーレビ国王が追放されるまでが王朝国家でした。それが現在は共和国になっていますが、イスラム教の修行と政治という戦時体制になっています。イランの近現代史では、アメリカとイランは今も確執がありますが中東の主要な国で大変影響力を持っています。
 
⑥ 旅行程
アラブ首長国連邦のドバイから飛行機でイランに入りました。イラン国内をバスと飛行機で移動して、ドバイに戻る行程で、世界遺産のある地域を中心に移動しました。

 

⑥-1 ペルセポリス
アケメネス王朝の時代にダレイオスI世により築かれ、クセルクセスI世が完成した宮殿であり、主としてアケメネス王朝が帝国として新年祭を行い、支配下にある諸民族から貢ぎ物を受け取る儀式を行い、その王権を示す場所であったと言われています。アレクサンドロス大王の東征によりアケメネス朝が滅亡したとき、ペルセポリスは火災により廃墟となりました。世界遺産に登録されています。ペルセポリスの周辺にある、ナクシェ・ラジャブとナクシェ・ロスタムも訪れました。巨岩の遺跡があり、ペルセポリスと同様に遺跡の浮き彫り(レリーフ)が非常に繊細で素晴らしかったです。

 

⑥-2シラーズ
地下鉄もあり観光客も多い大きな都市でした。街には乾燥地帯の水が流れていない枯れた川がありました。19世紀に建てられたモスクがあり、ステンドグラスに朝日が当たり床に写って綺麗でした。また、タイルにキリスト教の教会が描かれていて、イスラム教の国としては非常に珍しいものでした。
 
⑥-3 バサルガダエ
キュロスII世が築いたアケメネス朝の都でした。タレ・タフト要塞、王室庭園、アケメネス朝キュロスII世の墓が有名で、世界遺産に登録されています。

⑥-4ヤズド
世界遺産登録の旧市街が残っていました。またヤズドの建築の特徴で大きなバードギール(採風塔)が設置されて自然換気と夏の暑さを凌ぐ工夫がされていました。また街には、マスジェデ・ジャーメ金曜モスク (14世紀の建造モスクに付属する高い2つの塔)があり、52mとイランで最も高い建築物でした。ゾロアスター教徒の風葬の場所、アーデスキャデ(火の家)に行き、燭台に燃え続けているツァラストラの火を見ました。ゾロアスター教の葬送地の沈黙の塔にも行きました。また、メイボに行き、昔から使われているキャラバンサライ(隊商の宿泊施設)に行き、カナート(地下用水路)を見ました。これは、山の雪が解けた水をトンネル使って灌漑するシステムです。

 

⑥-5イスファハン
チェヘル・ソトゥーン宮殿に行きました。サファヴィー朝のアッバースII世により1657年に建造された迎賓館で、宮殿の名称は40本の柱の意味です。世界遺産登録のマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)を訪れました。ザーヤンデ川にサファヴィー朝時代に架けられたハージュ橋に行きました。夜になると照明をつけて幻想的な風景でした。アルメニアキリスト教の教会で、1655~1664年に建造されたヴァーンク教会も見学しました。世界遺産登録のイマーム広場にも行きました。広場は広く、モスクと宮殿があります。宮殿は7階建てイラン最古の高層建築です。

 

⑥-6カシャーン
世界遺産登録のペルシャ庭園のフィーン庭園に行きました。ここには浴場(17~19世紀ガージャール朝時代)がありました。

 

⑥-7タブリーズ
世界遺産登録の中東最古のバザールに行きました。アゼルバイジャンの歴史を学べるアゼルバイジャン博物館に行きました。ペルシャ語を勉強するために留学していた日本人学生に会いました。15世紀中頃モンゴルのカラ・コユンルのスルタンジャハーン・シャーの時代に建造されたモスク、マスジェデ・キャブードに行きました。地震により外壁のタイルは大部分が剥がれ落ちてしまい、内部の青いタイルがよく残っていましたがドームの天井のタイルはほとんど剥がれ落ちていました。

 

⑥-8キャドヴァーン村
トルコのカッパドキア国境の村と何となく瓜2つのような村でした。

⑥-9タフテ・ソレイマン
世界遺産に登録されています。紀元前2世紀のアルケサス朝パルティアに遡り、ゾロアスター教の神殿跡が残っていました。主要な遺構は、6〜7世紀ササン朝の時代に城壁が造られた後、放棄されましたが13世紀にモンゴルの襲来によりイル・ハン国アバカ・ハーン夏の離宮が造営されました。再び放棄され1819年にイギリスの旅行者が再発見しました。

 

⑥-10スルタニーイェ
サンジャーンにあるゴンバデ・スルタニーイェは、イル・ハン国の8代目ウルジャーイトゥの墓として建てられた廟で世界遺産に登録されています。

 

⑥-11今回の旅の雑感
・イスファハンの街並み
イランの街は非常に清潔で整っている感じがしました。
 
・バザール
イランのイメージで、イスラム教の教えが厳しく黒いイメージがありますが、割と派手な衣料品を売っていました。違う実態を見つけました。
 
・食事
滞在中に食堂・レストランで食べましたが、美味しいけど味が単調でした。例えば、ラムのミックスに野菜が付いて野菜の種類もあんまりない気がしました。スープについても、大体2種類しかなくて何かいつも同じスープを飲んでいました。それに御飯ということで、毎日こういう料理で食事については、飽きる感じがしました。
 
・シラーズの街並み
商店街は立派で、街並みも整ってきれいでした。
 
・街の外
外側は砂漠で、山には木が1本も生えていない状態でした。集落には色々木が植えて農地もあり、これは灌漑していると思います。また塩湖もありました。そして砂漠とは対照的なマンションのようなコンクリートの建物が多数ある風景も見ました。
 
4-3 その他
事務局より連絡がありました。

地理の会巡検23区シリーズ第17回「江戸川区」

 
23区巡検進捗地図

テーマ
低地の生活環境と街づくり
 
1.日時:2023年10月14日(土)11:00-16:30
 
2.参加者:14名
 
3.巡検行程:
約19kmのバス・鉄道・歩行移動距離、約5時間30分の移動時間、約12.4mの高低差
 
① スタート:東京メトロ東西線葛西駅前 都営バス案内所付近に集合
- 当日は、晴天で巡検日和になりました。参加者の紹介の後、今回の巡検の行程について案内者より説明がありました。その後、都営バスに乗車しました。
 
🚌バス移動:葛西駅前⇒(都営バス平23系統)⇒新川橋
 
② 新川・古川合流点(新川橋)
「新川は旧江戸川と中川を結ぶ河川です。現在、旧江戸川妙見島のすぐ上流側で分岐し、船堀2丁目、北葛西1丁目境界で中川へ合流しています。そこには元々、旧江戸川から分岐した古川(船堀川ともいわれた)が流れていましたが、江戸時代はじめにその流路を一部変更、拡張してできた運河が新川です。」
- 川というより運河のような景色でした。かつては江戸市中に塩など食材を運ぶ水路として、また明治期には客船航路としても利用されていた重要なルートであったとの説明がありました 。
 
③ 古川親水公園(徒歩見学)
「新川は、流路のほぼ半分ほど現在の新川橋より東側は江戸時代に開削され流路を直線化しています。残された旧流路が、古川親水公園となっています。古川親水公園は、日本で最初につくられた親水公園で1973年(昭和48年)の開園です。全長は1200m、公園内には現在も旧江戸川から水を引き込み、せせらぎがあります。」
- 水路は整備され、遊歩道には木々が植えられ、市民の憩いの散歩コースになっていました。古川の歴史・公園を説明する案内板が多く設置されていました。国際的にも評価されている親水公園だそうです 。
   
🚌バス移動:古川親水公園⇒(都営バス新小22系統)⇒瑞江中学校前
 
④ 旧江戸川・新中川合流点:スーパー堤防事業中
「これまで江戸川、荒川などの洪水対策は、堤防を高く・川幅を広くするなどによって、上流から流れてくる洪水を安全に東京湾に流そうとしてきました。ところが、いくら堤防を高くしても、その堤防が決壊すると、一度に大量の洪水が街の中に流入し、住民の生命と財産を奪うことになります。こういった壊滅的な水害を防止するため、国土交通省は、壊れない堤防スーパー堤防(高規格堤防)の整備を計画しました。堤防の高さの30倍の区域の土地の高さを盛り上げて、堤防が洪水や地震の液状化現象によっても壊れないのがスーパー堤防の特徴です。」(江戸川区ホームページ)
- 瑞穂大橋を渡り、旧江戸川と新中川の分岐点の旧江戸川の東京都側河岸で建設中のスーパー堤防を眺めました 。
 
🚌バス移動: 今井児童交通公園前⇒(都営バス新小22系統)⇒ 一之江5丁目
 
⑤ 今井街道(旧行徳道)・一之江境川親水公園・城東電車軌道跡
「城東電車は私営の路面電車で、1911年(明治44年)、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の間に敷設の許可がおり、1917年(大正6年)に錦糸堀―小松川間が開通、1921年(大正10年)には水神森〜大島間が開通しました。そして、1925年(大正14年)に東荒川〜今井橋間が開通し、翌1926年(大正15年)には小松川から西荒川までが延長されて(当時開削された荒川放水路を挟んで) 、東荒川との間には連絡バスがはしりました。1942年(昭和17年)に東京市の市営になり、翌年の都制施行によって都電になりましたが、1952年(昭和27年)に東荒川〜今井橋間は廃止され、上野公園〜今井間の都内初のトロリーバスにかわりました。この路線は、1968年(昭和43年)から都営バス路線として今も運行されています。」(江戸川区:一之江境川親水公園地誌) 
- 一之江境川親水公園で城東電車の歴史について説明がありました。公園内には、城東電車の説明板と実際に使用されていたレールが展示されていました。バス通りの通称今井街道は商店が立ち並びかつての賑わいを思い起こさせるものがあります。
  
🚌バス移動:一之江5丁目⇒(都営バス新小22系統)⇒江戸川区役所前 (水素を利用した燃料電池バスに乗車しました。)
 
⑥ 区役所庁舎
「現在の江戸川区役所本庁舎は、1962年(昭和37年)に落成しました。正面わきにはかつての水害における水位を表す目盛りとリアルタイムで荒川の水位を示す潮位表示塔があります。水位を示す単位はA.P.荒川ペイルを使用していますが、これは隅田川河口(かつての霊岸島=現中央区新川)に設けられた量水標の水位をゼロ位とした単位です。ほぼ大潮期間の干潮位に当たることから、荒川水系の基準面として使用されています。」
- 東京で、水位を示すこのようなポールがあることに興味を持ちました。標示塔の荒川水面は私たちが訪れた時には傍らに立った参加者のほぼ腰の上あたりに達していました。目盛りではキティ台風(1949年)時は+3.15m、カスリーン台風(1947年)ではさらに高い位置に達したことが分かります。 なお、老朽化が進む区役所本庁舎は2028年度(令和10年度)に移転・新築することが決定しています。 新庁舎では防災のため機械室などは想定浸水深さの5m以上に設け、窓口機能は2階以上に設置されるそうです 。
 
*休息・昼食:グリーンパレス  
 
⑦ 江戸川区郷土資料室
「江戸川区郷土資料室は、1965年(昭和40年)に児童生徒の郷土学習に資することを目的に開設されました。2000年(平成12年)に、郷土のあゆみがわかる展示をめざして大幅な改修をおこないました。2008年(平成20年)、グリーンパレス耐震補強工事により、常設展示をコンパクトに再構成してリニューアルオープンしました。」
- 「江戸川区のあゆみ」「暮らしと技」「川と海と江戸川区」が常設展示されていました。
 
🚌バス移動:江戸川区役所前⇒(都営バス新小22系統)⇒船堀駅前
 
⑧ 区役所新庁舎予定地・船堀駅と市街地
「都営地下鉄新宿線船堀駅は1983年(昭和58年)に開業。高架ホーム構造で地上には都営バスの停留所がターミナルのように並んでいます。乗降客の多い駅前にはタワーホールという商業テナントなどの複合施設があり、展望室(地上115m)も備えています。その北側には2028年度に区の新庁舎が移転してくる予定です。」
- 展望室 は、あいにくこの日は工事中のため上がることはできませんでした。
駅舎の壁面には「金魚」のモザイクがあしらわれているのは江戸川区の地場産業をイメージしたものです 。
 
🚃電車移動:船堀駅⇒(都営地下鉄新宿線)⇒東大島駅   
 
⑨ 大島小松川公園(防災再開発地区)、旧小松川閘門
「荒川と旧中川に挟まれたこの地域は江東区側の大島地区も含めていわゆる江東ゼロメートル地帯に属し、海面より数メートル低く、地盤は軟弱で住宅や工場が密集するという特性がありました。災害危険度が高いうえに経済基盤も低下する傾向が見られていたのです。1969年(昭和44年)、東京都が『江東再開発基本構想』を策定し、『亀戸・大島・小松川地区市街地再開発事業』が1979年(昭和54年)から40年余りにわたって実施され、大規模な都市改造が行われました。都営地下鉄新宿線を挟んで集合住宅や大規模な公園が整備されています。駅の南側はかつて大きな化学工場があった場所ですが、その跡地に盛土による土地のかさ上げをして丘の上の公園がつくられました。この付近一帯は化学工場から排出されるクロム鉱滓が埋められた箇所があるため、それらをこの場所に集めて六価クロムの無害化処理をしたうえで覆土により丘が造成されました。芝生に覆われた広場や樹木が植えられた公園で洪水などの時は避難広場として使われます。公園には旧小松川閘門のゲートの一部が保存されています。荒川と旧中川、そしてつながっている小名木川を結ぶ舟運の要衝であったこの地点に設けられた水位調節のためのゲートがこの閘門です(1930年設置)。現在は新しい『荒川ロックゲート』がその役割を果たしています。 」
- 現地は、工場の跡地を感じさせない、丘(標高約13m)になって木々も多く植えられて、市民の憩いの場所でした。展望台からは、荒川と対岸地を見下ろせる風景が広がって、洪水・地震などの災害時の待避所の役目もありそうでした。公園内には、アーティストのモニュメントに加えて、かつてはこの公園下にあった旧中川と荒川間の旧小松川閘門のゲートの一部がありました。建物のデザインが中世の古城のようで尊厳なイメージでした。
  
🚌バス移動:東大島駅前⇒(都営バス平28系統)⇒平井駅前   
 
⑩ JR東日本総武線平井駅前商店街
「旧中川と荒川に挟まれて、駅南口には商店街が開けています。 当駅は高架駅ですが、周辺は地盤沈下で海抜ゼロメートル地帯となっており、海抜マイナス2mの場所に位置します。」
- 平井駅は江戸川区で最初に開業(1899年)した鉄道駅とのことです。キティ台風では駅舎のほとんどが水没したそうです。かつては工業地帯が拡がりいわゆる三業地があったこの地域は現在でも飲食などで賑わいを見せる商店街です 。
  
⑪行徳道と旧中川「平井の渡し跡」、平井橋  
「平井の渡しは、中川(旧中川)を渡る行徳道の渡し場です。平井聖天への参詣路としても賑わいました。行徳道は、中川(旧中川)平井の渡しから四股で元佐倉道と交差して、東小松川村、西一之江村、東一之江村を経て今井の渡しに達する道筋を、行徳道とよんでいました。いつ頃できたものかわかりませんが、古くは行徳塩の輸送路のひとつであったと考えられています。庶民はこの道を成田山参詣路に利用したと思われます。江戸方面へは、平井の渡しを渡って、浅草の観音さま(浅草寺)への参詣にも利用されていました。1899年(明治32年)に平井橋が架けられるまで、使用されていました。」 (江戸川区 文化財・史跡サイト)
- 平井橋から平井駅方面を眺めると川の方が高いことを認識できました。平井橋は江戸川・墨田両区境界となっています。この付近の旧中川は現在水辺を遊歩道で歩けるほどに水位低下させていますが、昭和40年代頃まではコンクリート堤防の直下まで水面が迫っていました。付近の家屋も当然水面下でした 。
 
⑫ ゴール:JR東日本総武線平井駅前で解散
- 区役所にあった同じ荒川の水位を示すポールが駅前にあり、その場所で今回の巡検の総括をして解散となりました。
 
4. 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて 
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1927年~1939年・昭和2年~昭和14年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます。」「地図中央でコメントを確認できます。」さらにクリックすると「地図を拡大できます。」)
  img_8748.jpg 地理院の現在地図約19kmのバス(青線)・鉄道(緑線)・歩行(赤線)移動距離、
約5時間30分の移動時間、約12.4mの高低差
img_8749.jpg 今昔地図
(1927年〜1939年・昭和2年〜昭和14年)
荒川の西側は市街地で東側は水田が広がる農地、
④の新中川は存在していなかった、
⑤ 城東電車軌道の今井〜東荒川間の路線を確認、
⑨ 大島小松川公園は当時工場地帯で旧小松川閘門を確認
img_8750.jpg 地形図東側の④と造成された公園の⑨地域以外は標高1m以下のゼロメートル地帯、
特に荒川に近い⑥・⑦・⑧・⑩・⑫地点は標高-1〜-2mの海抜マイナス地帯

 
5. 巡検写真
(写真は、10秒毎の自動再生です。)

  img_8089.jpg ① スタート:
東京メトロ東西線葛西駅前
・都営バス案内所
参加者の紹介の後、今回の巡検の行程について案内者より説明がありました
img_8094.jpg ② 新川・古川合流点(新川橋)かつては江戸市中に物資を運ぶ水路として利用されていた重要な物流ルートであったの説明がありました。 img_8095.jpg ② 新川・古川合流点(新川橋) img_8096.jpg ② 新川・古川合流点(新川橋)新川の概要(千本桜・塩の道)の案内板 img_8097.jpg ③ 古川親水公園水路は整備され、遊歩道と木々が植えられ、市民の憩いの散歩コースになっていました。 img_8098.jpg ③ 古川親水公園古川の歴史を説明する案内板 img_8101.jpg ③ 古川親水公園公園を説明する案内板 img_8106.jpg ④ 旧江戸川・新中川合流点バス移動して「瑞江中学校前」に到着 img_8107.jpg ④ 旧江戸川・新中川合流点瑞穂大橋から旧江戸川を展望 img_8110.jpg ④ 旧江戸川・新中川合流点スーパー堤防事業地点 img_8113.jpg ④ 旧江戸川・新中川合流点スーパー堤防事業地点から合流点を展望 img_8118.jpg ⑤ 今井街道(旧行徳道)
・一之江境川親水公園
・城東電車軌道跡
一之江境川親水公園で城東電車の歴史について説明がありました。
img_8119.jpg ⑤ 今井街道(旧行徳道)
・一之江境川親水公園
・城東電車軌道跡
城東電車の説明板
img_8120.jpg ⑤ 今井街道(旧行徳道)
・一之江境川親水公園
・城東電車軌道跡
実際に使用されていたレールの展示
img_8124.jpg ⑤ 今井街道(旧行徳道)
・一之江境川親水公園
・城東電車軌道跡
今井街道の歩道に城東電車軌道がデザインされたオブジェ
img_8127.jpg ⑤ 今井街道(旧行徳道)
・一之江境川親水公園
・城東電車軌道跡
一之江5丁目バス停で水素を利用した燃料電池バスに乗車しました。
img_8131.jpg ⑥ 区役所庁舎水位を示すこのようなポールがあることに興味を持ちました。 img_8132.jpg ⑥ 区役所庁舎江戸川区役所の全貌 img_8137.jpg ⑧ 区役所新庁舎予定地
・船堀駅と市街地
都営地下鉄新宿線船堀駅前・複合施設のタワーホール船堀
img_8139.jpg ⑨ 大島小松川公園
(防災再開発地区)、旧小松川閘門
都営地下鉄新宿線東大島駅
img_8146.jpg ⑨ 大島小松川公園
(防災再開発地区)、旧小松川閘門
展望台:荒川と対岸地を見下ろせる風景
img_8148.jpg ⑨ 大島小松川公園
(防災再開発地区)、旧小松川閘門
公園内:アーティストのモニュメント
img_8150.jpg ⑨ 大島小松川公園
(防災再開発地区)、旧小松川閘門
公園下にあった旧中川と荒川間の旧小松川閘門のゲートの一部
img_8155.jpg ⑪行徳道と旧中川
「平井の渡し跡」、平井橋
「平井の渡し跡」の案内板
img_8157.jpg ⑪行徳道と旧中川
「平井の渡し跡」、平井橋
旧中川の展望
img_8158.jpg ⑪行徳道と旧中川
「平井の渡し跡」、平井橋
平井橋の展望
img_8160.jpg ⑪行徳道と旧中川
「平井の渡し跡」、平井橋
平井橋から平井駅方面を眺めると川の方が高いことを認識できました。
img_8162.jpg ⑫ ゴール:
JR東日本総武線平井駅前で解散
水位を示すポールが駅前にあり、その場所で今回の巡検の総括をして解散となりました。

 

地理の会交流会(オンライン)

1.  日時:2023年7月25日(火)19:00〜20:10
2.  開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3.  出席者:22名
 
4.  内容:
①地理の会全員への意向等調査について
今後の活動方向を探るための意向等調査を行っています。今回、回答の中間報告を行いました。
 
②秋の行事、地理の会巡検23区シリーズ第17回「江戸川区」の概要
・実施予定:10月中旬
・対象地:江戸川区(平井・小松川・船堀・中央地区)
・テーマ:「低地の街づくりと生活環境」
・予定の行程:JR平井駅→木下川排水機場前→旧中川・平井橋→都営地下鉄東大島駅→大島小松川公園→荒川ロックゲート前→都営地下鉄東大島駅→都営地下鉄船堀駅(タワー展望など)→江戸川区郷土資料室→江戸川区役所庁舎前
(移動はなるべく路線バス並びに地下鉄を利用、現地では徒歩。)
 
③東海道線車窓巡検の報告 
・実施日:2023年6月11日(日)
・テーマ: 「東海道の車窓から見る日本の国土の変化 」
現在でも在来線を乗り継げばかつての修学旅行用電車に近い所要時分で東海道を走破できます。そこで昭40年代の中学生副読本を資料に実際に乗車し沿線の車窓を観察し往時の修学旅行を再現しました。
・乗車した列車の主な駅と時刻 (修学旅行列車/感染症以前)
   品川発8:19(8:08/8:07特)
   熱海発10:00(9:42/9:37)
   静岡発11:24(10:45/11:04)
   浜松発12:46(11:53/12:20)
   豊橋発13:32(12:19/13:03快)
   米原発15:47(14:29/15:17快)
   京都着16:42(15:51/16:12)
・車窓に認められたもの(山側) :
   品川:三共、国鉄工場、大森貝塚、自動車学校
   川崎:浅野総一郎像
   横浜:高島屋、ガスタンク、住友電機
   大船:大船観音     
   辻堂:東洋陶器
   小田原:富士フイルム、ガスタンク
   沼津:明電舎
   吉原:大興製紙
   興津:清見寺
   藤枝:旧東海道
   磐田:東洋ベアリング
   浜松:国鉄浜松工場、鈴木自動車
   鷲津:矢崎電機
   蒲郡:濃栄工業
   刈谷:日本電装
   清州:清州城址、トヨタ自動車
   稲沢:操車場
   尾張一宮:日本電機
   関ヶ原:妙応寺
   彦根:松下電工
   京都:琵琶湖疏水
・駅弁事情など
 
④会員からの情報提供
 
・「北海道新球場野球観戦と小旅行」 
北海道の札幌地区を訪れる機会があったので報告して頂きました。
訪れた場所は、
1)プロ野球日本ハムの新球場「ES CON FIELD」
札幌市内から遠く、北広島市の近郊に位置します。球場近くJR千歳線の駅が計画されているが、今はなく、北広島駅までシャトルバスを利用して、札幌市内に移動なので不便であった。
2)札幌駅の新幹線ホーム(在来駅より東側に設置)建設予定を説明
2030年開通予定の北海道新幹線が札幌まで延長され、函館本線が部分的に廃止される予定なのでこの機会に札幌から長万部まで乗車しました。
3)2016年にループ化した札幌市電に乗車しました。敷設された新線は、道路の真ん中ではなく、左右の歩道側に線路を敷く「サイドリザベーション方式」が採用され、歩道から直接、電車に乗ることができます。
4)新千歳空港近くの千歳美々ワールドに新しい半導体企業「ラピダス」の北海道誘致により、産業の活性化が期待されています。
  

 
・「ビクトリアの滝・喜望峰 アフリカ3カ国の旅」
1)2023年7月12日〜18日、「ビクトリの滝・喜望峰 アフリカ3カ国」のツアーを本人のホームページから報告して頂きました。(http://sekainihonyama.g1.xrea.com/2307africa.html
2)成田空港を出発しシンガーポール経由で南アフリカ共和国のヨハネスブルクに到着。再度乗り換えてジンバブエ共和国のビクトリア・フォールズに到着。ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にあるビクトリア滝を両国から見学。滝の雄大な姿と地質的形成に興味を持ちました。次に、飛行機で南アフリカ共和国のケープタウンに移動。ケープ半島・喜望岬に向かう。念願のアフリカ半島最南西端の喜望峰に降り立つ。続いてケープポイントにも。ケープペンギンにも出会えました。最後にテーブルマウンテンに登った。ケープタウンから出発して日本に帰国しました。
3)ビクトリアの滝と喜望峰、この二つが目的地でした。本や地図だけではわからないものがあり、行ってみないとわからないものがありました。南半球、季節は冬ということもありますが、アフリカのイメージが変わりました。アフリカ南部は灼熱の国などではなく、むしろ日本の方が灼熱の国だろうと感じました。喜望峰の地理的、歴史的意味、ビクトリアの滝のアフリカ大陸の平原に出現する姿、百聞は一見に如かずとしかいいようがありません。
*ビクトリアの滝*

関東大震災100年 横浜巡検

 
 テーマ
今年は1923年(大正12年)の関東大震災から100年の節目でもあることからこれにより甚大な被害を被った横浜を訪れて、関東大震災当時の克明な記録を残したアメリカ人商社駐在員(O.M.プール)の避難ルートを辿りながら震災遺構を見学しました。
 
講師・案内者
相原延光さん(神奈川地学会幹事、地理の会メンバー)
 
<巡検ルート事前学習会>
今回は、巡検を実施する前に事前学習会を開催しました。
1.  日時:2023年4月16日(日)15:00~16:00
2.  開催方法:Zoomミーティングを使用したオンライン
3.  参加者:23名 
4.  内容:
① 地震の発災とメカニズム
大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発災しました。
地震の種類:フィリピン海プレートの沈み込みによる海溝型首都直下地震
本震            11時58分    マグニチュード 7.9(震央は神奈川県西部)
1回目の余震  12時10分            〃    7.2( 〃 相模湾)
2回目の余震  翌日9月2日12時3分  〃    7.9(  〃 丹沢山地)
唯一壊れなかった今村式地震計は、東西方向の動きだけが記録が残されていて、他の方向は揺れが大きすぎて振り切れている。主要動(S波)が南北方向と上下方向であった。分かり易くいうと、地震動が東京の南西方向から斜め北東方向に突き上げるように来て、特に南〜北方向に大きく揺れたということになる。この特徴は、横浜でも同じで、山手の地滑りや西の橋の損傷の原因となったと思われる。
 
② 地盤災害
画面で、関東大震災前後の新旧の景観写真を見ながら比較した。
横浜の山手と縁辺の地滑りの様子。元町にあった学校やホテル群が壊滅状態になった。坂と斜面でがけ崩れ、地滑りが多発した。低地の軟弱地盤地域では、電柱やマンホールに大きな被害があった。
 
③ 同時多発火災
東京下町の隅田川沿いの空地であった陸軍被服廠跡で約38,000人が火災旋風を原因として窒息したり焼死した。
被災者が持ち込んだ家財道具など可燃物が理由という。旧東京市全体の火災は3日午前10時まで延々46時間続いた。
横浜では大岡川沿いの埋立地の軟弱地盤地域から火災が始まり、南向きの強風に煽られて約3時間で旧横浜市全体が全焼した。特に死者が多かったところは山下町中華街で2,000名以上、吉田橋で約1,000名。
東京と横浜で共通するところは、発災から約3〜4時間の同時多発火災であって、一段落したあとに、火災旋風が主に川沿いで発生し、広場で多くの死者をだしている点。(ただし、横濱公園は死者が少なかった)
 
④ 防災上の課題
震災当時の気象状況については、中央気象台の藤原咲平博士を中心とした震災調査報告書が出ており、自記計の記録をもとに時系列で気象の変化(前線の通過による気温・風向の変化や火災旋風を発生)を読み取ることができる。最新の消防庁の火災旋風の研究では、横風が吹いている条件で風下に発生するという。横浜では神奈川県測候所が倒潰焼失したので、記録が残されていないが、地震の震源が神奈川県内であっただけに、旧横濱市は旧東京市よりさらに厳しい複合災害となった。
 
⑤ 推薦図書
たくさんの推薦図書が講師から示されたが、最終的に今回使用するO.M.プールの『古き横浜の壊滅』はぜひ読んでほしいということであった。すでに絶版のため、古書購入や図書館などで。
 
<参考文献>
「古き横浜の壊滅」O.M.プール 有隣新書
「ある英国人女性の手紙 関東大地震からの逃避行」伊藤泉美 横浜開港資料館紀要2014.3
 
<巡検>
1.  日時: 2023年4月23日(日)12:00~16:20
2.  参加者:19名
3.  巡検行程:
約5.7kmの歩行移動距離、約4時間の移動時間、約39.2mの高低差
① スタート:横浜高速鉄道みなとみらい線・日本大通り駅
出席者の確認後、案内者より巡検コースの説明と参考図書の紹介がありました。
 
② みなとみらい線「日本大通り」交差点付近:開通合名会社の煉瓦遺構
「明治時代に建てられたと推定される『開通合名会社』の社屋の一部であると考えられています。建物は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しました。その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されて、関東大震災の記憶を伝える歴史的遺産として現地に保存されています。」
・関東大震災による煉瓦造建物震災遺構と馬車道方向の震災当時の写真に写っている風景についての説明、関東地震の揺れは短周期強振動(震度7)であったので、横浜開港記念会館(通称ジャックの塔)大正6年建造高さ36mの高層建築は倒潰しなかった。基礎部分の煉瓦に耐震金具を入れていたとの説明がありました。
 
③ 大桟橋入口陸橋下の「みなと歴史ガイド」
・壁面にある「1910年(明治43年)頃の絵図」を用いて、明治後期の横浜税関から見た、大桟橋、象の鼻の風景であるとの説明がありました。
 
④ 大桟橋入口(旧神奈川県測候所跡地)
「神奈川県測候所は1896年(明治29年)から観測業務を開始しましたが、1923年(大正12年)の震災で倒潰し後方から来た火災で焼失し、機器類と共に過去30年間積み重ねてきた観測原簿類を失いました。1927年に山手の米国海軍病院跡地に再建され、横濱地方気象台として再建された 」
・同測候所発行の横濱火災延焼状況図についての説明がありました。
 
⑤ 開港広場公園
「開港広場公園は、開港記念広場とも呼ばれます。日米和親条約調印の地で石碑が残っています。公園工事中に発見された下水管の関東大震災遺構は、上部から見学できるよう透明のガラス板が設けられています。下水管が卵型をしているのは、管の下側を狭くすることで流速を大きくし汚染物を流しやすくするためです。」
・日米和親条約締結の石碑と開港広場の関東大震災遺構について説明がありました。
 
⑥ 横浜市開港資料館(旧英国領事館跡)
「1981年(昭和56年)に、元英国領事館(1931年建築、1972年(昭和47年)まで領事館として利用された)に開館しました。中庭に植えられている玉楠の木はペリー来航時の記録画にも描かれています。」
・中庭を1周し獅子頭共用栓とブラフ溝、玉楠の木、館内に入り展示物、横浜村の立体模型で横浜開港当時(1854年)地形、特に砂嘴と干拓地を埋めた新田についての説明がありました。
 
⑦ 日本大通り
「1859年の横浜港開港派外国人慰留地となりました。1866年の大火(豚屋火事)を契機に外国人側は居留地の拡張・拡充を要求、横浜居留地改造及競馬場墓地等約書が定められ、大規模な区画整理が行われました。イギリス人建築家リチャード・ブラントンの設計※により、1870年(明治3年)に日本初の西洋式街路としてほぼ完成しました。」
※補足:ブラントン(1841-1901)はスコットランド生まれ、鉄道技師。日本の灯台建設土木技師としてお雇い外国人。砂州の先端部の弁天社に試験灯台を作ったのが最初の仕事で「灯台の父」といわれている。明治18年の解雇まで横浜公園、日本大通り、鉄橋、建築物など様々な土木事業を行った。地震が多い国を計算に入れて耐震設計も行っている。
・日本大通りの成り立ちの説明がありました。
 
⑧ 横浜公園
「1866年の大火「豚屋火事」によって焼失後、1875年(明治8年)、在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、土木技師リチャード・ブラントン設計のもと遊郭跡地に横浜公園、公園から港に向かって日本大通りが建設されました。」
・横浜の関東大震震災の災害(死者分布と火災旋風)、横濱公園誕生の歴史、6万人避難地、緑陰地の効果、水道管破裂の原因と土地履歴、火災旋風と避難場所、横浜外国人居留地火災保険地図と中華街の被害2,000人(死者分布と火災)について説明がありました。
 
⑨ 震災遺構「露亜銀行」(現在、結婚式場「ラ・バンク・ド・ロア」)
「1921年に露亜銀行横浜支店として建設され、1923年の関東大震災や1945年の横浜大空襲も耐え抜いてきました。横浜で唯一現存する外国資本の銀行建築の遺構です。」
 
⑩ O.M.プールの(火災からの)逃避行ルートの出発点・旧ドッドウェル商会(現在、JALシティホテル)
「O.M.プールは、横浜で関東大震災に遭遇したときの克明な体験記『古き横浜の壊滅』(金井圓訳、有隣新書、1976年刊)の著者として知られています。原書 The Death of Old Yokohama は、地震から40数年を経た1968年にロンドンで刊行されました。  1923年9月1日の正午頃、旧外国人居留地のほぼ中央、山下町72番地Aのドッドウェル商会にいた著者は、壊滅状態の瓦礫のなかを炎と煙に追われながら自宅のある山手へ、さらに家族とともに湾内の船へと命からがら逃げ延びました。その必死の避難の様子、目のあたりにした惨状、数日間の避難状況が克明に描かれていて、現場に立ち会っているような生々しい体験談となっています。さらに著者自身が撮影した多数の写真が貴重な記録となっています。」
 
⑪ 90番地シーベル商会跡地
「生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(1865年創立)があり、明治維新の際の戌辰戦争中は武器の輸入も行っていました。」
・跡地の案内板が見落としそうな場所にありました。外国人居留地の石積擁壁が残されていました。
 
⑫ 横浜新田埋立地と旧SWAMP(沼地)の境界
「居留地のすぐそばで非公式な馬場が設けられていましたが、横浜新田(現在の横浜山下町横浜中華街)の埋立地に改めて正式に競馬場が1862年に作られました。」
・関東大震災による軟弱地盤の液状化によって、逃避行中のO.M.プールは中華街(横浜新田埋立地)の端にある加賀町警察署の先を約91m間の泥水帯を腰までつかって移動したとのことです。「この場所はスワンプ(沼地,湿地帯)と呼ばれた地域で、地震動による地盤の液状化で地下水が出てきた=過去の環境が蘇ったと考えられます。この地域の浸水原因の一つと考えられる。
 
⑬ 堀川・西の橋
「旧橋は、横浜開港場の整備にあたり開削された堀川に架橋されたもので、現在の橋は関東大震災の復興事業により、1926年(大正15年)に、山手道につながる本牧方面への街路事業として、国の復興局により架け替えられました。」
・関東大震災当時、堀川沿いに発生した火災旋風の移動がありましたが、O. M.プールは、壊れた西の橋を横になって何とか渡りきって元町に向かいました。元町中の道は両側の家が崩れ瓦礫の山となっていたが僅かな隙間があって進めたが、後方の地蔵坂の方から急に発生した火が後方から迫り、逃げるように山手の家族の元へ急いだ。
 
⑭ パークテラス元町駐車場(旧百段と浅間神社崩壊)
「旧横浜村の海辺にあった浅間神社は、1860年に山手の丘の上に移されました。元町の前田橋の先から浅間神社にまっすぐ登る石段が寄進されました。石段は101段あったことから、「百段坂」や「元町百段」と呼ばれ親しまれました。1923年9月1日に発生した関東大震災で石段は崩落し、その後石段が再建されることはありませんでした。」
・石段跡の急崖はそのままで、堅牢なコンクリートで固められ、下は駐車場になっていた。震災による崩壊の状況についての説明がありました。
 
⑮ 代官坂
「『代官坂』と呼ばれるようになったのは明治20~30年代と考えられ、坂の途中に屋敷を構えた石川徳右衛門に由来します。徳右衛門が1854年ペリー来航の際に応接し、その後も横浜の町政をつかさどった有力者です。」
・O.M.プールは、この坂を登り自宅へ向かいました。
 
⑯ ジェラールの水屋敷地下貯水槽
「幕末に来目したフランス人実業家アルフレッド・ジェラールは、山手居留地77番・78番の地を得ると、谷戸に湧き出る豊富な湧水を利用して、横浜港に出入りする船舶への給水事業を開始しました。この施設は水屋敷と呼ばれ、下部貯水槽は2001年より国登録有形文化財となっています。近代水道が1887年より供給開始し、居留地向けの水販売はこの頃で終了したとみられますが、船舶向け水供給はその後も続きました。この施設は翌年の関東大震災で崩壊しましたが、水源は被災者にとって重要な給水場所となりました。」
・現在も残っている水槽を見学しました。
 
⑰ 元町公園(山手80番地の震災遺構)
「かつてマクガワン夫妻が暮らしていた住宅で、明治末ないし大正初期に建てられたと推測されています。元は3階建てであったが、関東大震災で崩壊もしくは損壊し、地下部分のみが残っています。煉瓦の壁は鉄の棒で補強され、耐震性を考慮されていたにもかかわらず関東大震災で被害を受けたことから、震災の大きさを今に伝える遺構となっています。」
・O.M.プールは代官坂を登って山手通りを左に行き、山手68番地の自宅に着いたが、家族はそこから移動して山手89番地の叔父の家(今の山手資料館付近)で家族と感動の再会ができました。
 
⑱ 横浜地方気象台(アメリカ海軍病院跡地)
「山手の外人墓地一帯はスリバチ地形で、地震後直ぐ地滑りが発生しました。山手の米国海軍病院も全潰し、跡地には横濱地方気象台の本庁舎が移転しました。」
・「山手の移り変わり」「山手のブラフ積み」の案内板の場所で、房州石による石積み、レンガ造りの井戸についての説明がありました。
 
⑲ 港の見える丘公園
「山手の入り口には幕末から外国人居留民の身辺警護を目的とし、イギリス海軍とフランス海軍の兵舎が駐留していました。明治になって軍隊の撤退後後も両国の施設(領事館・病院等)がありました。『港が見える丘』は、第2次世界大戦終戦後の1948年(昭和23年)にヒットした流行歌『港が見える丘』に因んで命名されたものです。」
・現在、展望台の急崖はかつての海食崖です。当時には海岸は住宅がない埋立地で絶好の避難場所でした。O.M.プール氏の家族7人(そのうち6歳を筆頭に子供3人)は、英国海軍病院の北と南の両方から迫りくる火煙で絶体絶命となり、病院から一段低い庭の付近からテニスコートの網を命綱にして崖から決死の脱出を試みました。全員無事に崖を降りたのは午後3時頃でした。その後大桟橋の手前のフランス波止場に停泊しておいた叔父のヨット「ダイミョウ号」に避難しました。
 
⑳ 千鳥坂・新山下弁財天跡看板
「坂の名の由来は定かではなく、他に「ムジナ坂」とも呼ばれていました。崖の下はかつて海でしたが、「千鳥坂」は崖上の山手地区と崖下の埋立地(新山下町)を結ぶ坂として震災後の土木工事によって開削された坂です。
新山下弁財天は、昭和初期に地域の有志が広島県の厳島神社から勧請し、見晴橋付近に安置したのが始まりです。その後、この地に移動しました。1945年の横浜大空襲によりお堂は焼失ししましたが、新山下の町全域は戦火を免れました。そのことから弁財天が「身代わり」になってくれたといわれています。」
・港の見える丘公園がある高台は「下末吉台地」といい、そこから新山下町に急階段(千鳥坂)に降りていきました。坂の途中の擁壁の穴から湧水が流れでていることを耳と目で確認しました。水が湧き出しているのは礫層やその下の硬い泥層の間です。O.M.プール氏の家族は崖を降りるときにわずか幅60cmほどのステップを足場にして斜め横に少しずつ降りていったといいます。
 
㉑ ゴール: 新山下第2駐車場(急傾斜地崩壊区域)
「下末吉台地とは、神奈川県北東部の川崎市高津から、横浜市鶴見・港北・保土ヶ谷などに広がる海抜40 - 60メートルほどの台地です。鶴見川・帷子川・大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されています。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なっています。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山・山手・本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っています。」
・港が見える公園展望台の直下の場所になります。急崖で関東大震災時には崩壊した場所になります。現在は、防護工事されています。崖の防護工事を行った際に作成した資料で下末吉台地の港の見える丘公園の崖を作る地層について説明がありました。
 
4. 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1896年〜1909年・明治29年〜明治42年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」)
  img_8361.jpg 地理院の現在地図約5.7kmの歩行移動距離、約4時間の移動時間、約39.2mの高低差 img_8362.jpg 今昔地図(1896年~1909年
・明治29年~明治42年)
- ④ 大桟橋入口近くに旧神奈川県測候所跡地を示す測候所の地図記号”T”を確認
- ⑫の中華街の街並みが周りの街並みと異なる(横浜新田埋立地)
- ⑬の西の橋の位置が現在の橋と比べて海側にずれている
- ⑭ から台地に向う谷間に旧百段らしきもの
- ⑱と⑲近くに病院の地図記号を確認(米国と英国の海軍病院)
- ⑳と㉑の周辺は海岸または海であった、⑳の千鳥坂は当時無かった
img_8364.jpg 地形図- 海岸よりの①・④・⑨より内陸部の⑧・⑫が低い(砂嘴と埋立地)
- ⑰・⑲は下末吉台地上にあり高さは約40m、 開析が進み谷間が多い地形

5. 巡検写真
 (写真は、10秒毎の自動再生です。)
  img_7420.jpg ① スタート:
横浜高速鉄道みなとみらい線
日本大通り駅
出席者の確認後、案内者より巡検コースの説明と参考図書の紹介
img_7422.jpg ② 開通合名会社の煉瓦遺構関東大震災による煉瓦造建物震災遺構と馬車道方向の震災当時の写真に写っている風景についての説明 img_7423.jpg ② 開通合名会社の煉瓦遺構煉瓦遺構と震災当時の写真 img_7424_20230511174325601.jpg ③ 大桟橋入口陸橋下の
「みなと歴史ガイド」
壁面にある「1910年(明治43年)頃の絵図」を用いて、明治後期の横浜税関から見た、大桟橋、象の鼻の風景であるとの説明
img_7425.jpg ③ 大桟橋入口陸橋下の
「みなと歴史ガイド」
1910年(明治43年)頃の絵図
img_7427.jpg ④ 大桟橋入口
(旧神奈川県測候所跡地)
同測候所発行の横濱火災延焼状況図についての説明
img_7429.jpg ⑤ 開港広場公園日米和親条約締結の石碑 img_7430.jpg ⑤ 開港広場公園日米和親条約締結の石碑と開港広場の関東大震災遺構について説明 img_7434.jpg ⑥ 横浜市開港資料館
(旧英国領事館跡)
横浜村の立体模型で横浜開港当時(1854年)地形、特に砂嘴と干拓地を埋めた新田についての説明
img_7436.jpg ⑥ 横浜市開港資料館
(旧英国領事館跡)
中庭に植えられている玉楠の木とペリー来航時の記録画
img_7437.jpg ⑦ 日本大通り日本大通り成り立ちの説明 img_7439.jpg ⑦ 日本大通り「日本大通り」の案内板 img_7442.jpg ⑧ 横浜公園横浜の関東大震震災の災害(死者分布と火災旋風)、横濱公園誕生の歴史、6万人避難地、緑陰地の効果、水道管破裂の原因と土地履歴、火災旋風と避難場所、横浜外国人居留地火災保険地図と中華街の被害2,000人(死者分布と火災)について説明 img_7443.jpg ⑧ 横浜公園「横浜公園の歴史」の案内板 img_7445.jpg ⑨ 震災遺構「露亜銀行」現在、結婚式場「ラ・バンク・ド・ロア」
img_7446.jpg ⑨ 震災遺構「露亜銀行」O.M.プールについて説明、避難先の神戸で撮影されたO.M.プール家族の写真、後列の左から2番目が本人(「古き横浜の壊滅」から引用) img_7447.jpg ⑪ 90番地シーベル商会跡地外国人居留地の石積擁壁 img_7448.jpg ⑫ 横浜新田埋立地と
旧SWAMP(沼地)の境界
人出が多く賑わっている中華街
img_7451.jpg ⑬ 堀川・西の橋橋に「大正15年11月竣工」記載有り img_7452.jpg ⑬ 堀川・西の橋「西の橋」の案内板 img_7456.jpg ⑭ パークテラス元町駐車場
(旧百段と浅間神社崩壊)
震災による崩壊の状況についての説明
img_7457.jpg ⑮ 代官坂「代官坂」についての説明 img_7458.jpg ⑮ 代官坂O.M.プールは、この坂を登り自宅へ向かいました。 img_7462.jpg ⑯ ジェラールの水屋敷地下貯水槽「ジェラールの水屋敷地下貯水槽」の案内板 img_7461.jpg ⑯ ジェラールの水屋敷地下貯水槽現在も残っている水槽を見学しました。 img_7467.jpg ⑰ 元町公園
(山手80番地の震災遺構)
かつてマクガワン夫妻が暮らしていた住宅で、元は3階建てであったが、関東大震災で崩壊もしくは損壊し、地下部分のみが残っています。
img_7469.jpg ⑰ 元町公園
(山手80番地の震災遺構)
「山手80番館遺跡」案内板
img_7472.jpg ⑱ 横浜地方気象台
(アメリカ海軍病院跡地)
山手の外人墓地一帯のスリバチ地形について説明
img_7474.jpg ⑱ 横浜地方気象台
(アメリカ海軍病院跡地)
「山手の移り変わり」「山手のブラフ積み」の案内板の場所で、房州石による石積み、レンガ造りの井戸についての説明がありました。
img_7475.jpg ⑱ 横浜地方気象台
(アメリカ海軍病院跡地)
「山手の移り変わり」「山手のブラフ積み」の案内板
img_7477.jpg ⑲ 港の見える丘公園展望台から海側の風景、急崖は海食崖です。 img_7480.jpg ⑲ 港の見える丘公園「港の見える丘公園」案内板 img_7485.jpg ⑳ 千鳥坂・新山下弁財天跡看板「下末吉台地」の地層について説明 img_7486.jpg ⑳ 千鳥坂・新山下弁財天跡看板「新山下弁財天跡」案内板 img_7487.jpg ㉑ ゴール:
新山下第2駐車場(急傾斜地崩壊区域)
港が見える公園展望台の直下の場所、急崖で関東大震災時には崩壊した場所
img_7489.jpg ㉑ ゴール:
新山下第2駐車場(急傾斜地崩壊区域)
崖の防護工事を行った際に作成した資料で下末吉台地の港の見える丘公園の崖を作る地層について説明がありました。

地理の会交流会(オンライン)

1.日時:2月25日(土)20:00~21:00
2.開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3.出席者:25名 
 
4.内容 :
①会員発表
「関東地方の人口移動状況と鉄道通勤輸送」
コロナ禍による人口移動状況について、その原因となる働き方の変化を捉え、それが鉄道輸送にどのような変化をもたらしたかを発表して頂きました。以下発表内容です。
 
・住民基本台帳に見る関東各都県の人口転入(転出)状況(1983~2022年)を見るとコロナ禍が始まる以前(1997年〜2020年)までは東京23区への転入超過が見られましたが、コロナ禍(2021年)には転出超過へと変化しています。さらに詳細に、コロナ禍における2020年1月〜2022年12月までの月毎の人口転入(転出)の状況を見ると、3月の進学・就職時期に見られる23区への転入超過は2021年は減少しますが、23区以外の南関東の転入超過は変わりませんでした。また、2020年8月頃より、23区の転出超過が顕著となりましたが、転出先は南関東と推察されます。この変化の原因の一つとして、働き方の変化、テレワークの普及が考えられます。
・テレワークの普及率を見ると、2020年の3月に急激に増加し、2021年秋までは上昇傾向が見られたが、その後減少気味です。さらに都心5区(千代田、中央、港、新宿、渋谷)のオフィス空室率推移を見ると、2020年6月から急激に増加し2021年秋以降は一定推移しています。
・次に、鉄道輸送への影響ですが、関東大手民鉄6社の輸送成績推移については、定期外、通学定期は第一回緊急事態宣言での激減以降、上昇傾向にあるのに対し、通勤定期は1年半減少を続け、その後も目立った上昇は見られませんでした。さらに、関東大手6社の各社別通勤定期輸送人員指数の動向を見ると、各社とも減少傾向でありますが、会社間で差が見られ、各社間の減少の幅は10ポイントの差が見られました。また、沿線平均所得と定期旅客減少率については相関関係があると推測されます。高テレワーク業種の分布状況と鉄道沿線の状況も同じような相関関係が見られます。
・これからのコロナ禍の状況によってどうなるかわかりませんが、テレワークは定着して拡大していき、今後の鉄道の通勤輸送の減少が当面継続されるのではないかと考えています。

 

 
② 情報提供(参加者から適宜発言)
地理関係の話題について、普段話すことのない会員同士の話し合いができました。
以下に会員から頂いた話題を掲載します。
 
・離島訪問記録:猿島を訪れて
神奈川県横須賀市にある無人島の猿島を訪れ、写真を用いて説明して頂きました。島内は、旧日本軍の砲台跡、煉瓦造りの要塞跡などがあり見応えのある場所でした。
・北海道鉄道旅
2022年の秋に、北海道の留萌本線の石狩沼田駅 - 留萌駅間が2023年3月で営業運転終了することで、4日間有効の「きた北海道フリーパス」を使って、留萌本線の他に宗谷本線、富良野線、根室本線、函館本線、室蘭本線に乗って鉄道旅を満喫しました。
・京成電鉄講演会
葛飾区郷士と天文博物館で開催された、「鉄道史講座 京成電鉄外史(葛飾区内を走る京成電鉄の意外な歴史を紹介します!)」講師:白土貞夫さん(鉄道史研究家)を聴講しました。京成電鉄の歴史・車両・軌道などについて興味深い話を聞くことができました。
・その他、地理関係についてのコメント
 
③ 連絡事項
4月に開催される巡検について説明がありました。