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地理の会巡検23区シリーズ第19回「荒川区」


テーマ
東京の代表的地形のひとつである武蔵野台地の東端と東京低地(沖積低地)の地形境界と、そのような地形を前提として成立した江戸庶民の行楽地、周辺の坂、切通などの特徴的地形、鉄道敷設とその後の地形改変の跡を歩く。低地地区では下水処理施設の公園化活用、旧来型商店街の現状、宿場町の特徴的施設等を尋ねる。
 
1. 日時 20241215()13:00-16:14
 
2. 参加者 14名
 
3. 巡検行程(荒川区南部のうち西日暮里、町屋、荒川(三河島)及び南千住地区)
約9.6kmの歩行・東京メトロ・都電荒川線、約3時間14分の移動時間、約20mの高低差(最高標高21m、最低標高1m) 
 
① スタート日暮里駅 
北改札西口(谷中方面)に集合
 
② 御殿坂 
駅前の緩やかな坂。向かって左側は台東区なので、すぐに横断歩道を右側に渡ります。
 
③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡)
江戸庶民の月見の名所。かつては河口付近の沖積低地の広漠たる平野から月が昇るのが眺められたはずですが建築物によって、その景観は失われました。月も集合住宅の屋根から昇るのでしょう。また太田道灌が地形的特徴を活かして物見を設けたという伝承があります。
 
④ 浄光寺(雪見寺・六地蔵)
江戸の雪見の名所でした。しかし、建物にさえぎられて現在その景観はありません。近代化による景観喪失の一例でしょう。また境内に江戸中期と後期の二体の地蔵が見られます。江戸四宿などに建立された江戸六地蔵と異なり東都六地蔵の一とされます。地蔵信仰には地域鎮護の意味合いがあり、台地と低地の地形境界にある地勢と関連するかも知れません。
 
⑤ 諏方神社 
諏訪大社の分社(「方」の文字が使われていることに注意)で日暮里、谷中の総鎮守とされます。台地の突端に位置し、かつては筑波山が見えたといいます。
 
⑥ 地蔵坂
浄光寺に六地蔵があることから命名されました。日暮里崖線の段丘崖を緩傾斜路によって通行する目的で造られた崖際道です。崖側に土留が設置され石段の手摺の支柱が半ば埋まっており緩慢な土砂の流下が長期間継続していることがうかがえます。
 
⑦ 道灌山切通 
台地は標高22~3メートル、低地は同1~5メートル、この切通部分は18~20メートルの標高差があると思われます。段丘崖に直交し人為的な地形改変によって造られた切通坂で近代以降、車両通行などのため更に切り下げられ拡幅されたと思われます。付近に道灌山の通称地名があります。
 
⑧ 京成線道灌山通駅跡 
昭18年に戦時統制で不要不急駅として営業休止、そのまま廃止されました。開通当初の京成線は上野から新三河島の間に博物館動物園、寛永寺坂、日暮里、道灌山通と路面電車並みの駅数が開設されました。現在は駅の遺構は認められません。後年、同じ場所に山手線と千代田線の西日暮里駅が開設されたのは現状のとおりです。
 
⑨ 西日暮里駅〜(地下鉄千代田線)〜町屋駅
 
⑩ 町屋商店街
 
⑪ 町屋駅前〜(都電荒川線)〜荒川二丁目停留所
 
⑫ 三河島水再生センター・荒川自然公園
このセンターは日本で最初の近代的な下水処理施設で1922年(大正11年)に運用を開始しました。現在の処理対象区域は荒川・台東区の全域、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部です。処理された水は隅田川に放流されます。施設の上部は緑に覆われた荒川自然公園(荒川区立)として利用され、遊歩道、池、野球場、テニスコートなどが整備されています。なお、都電荒川二丁目停留所の前に赤レンガのレトロな建物が目に入りますが、これは旧三河島汚水処分場ポンプ (正式には漢字表記)場施設で国重要文化財に指定されています(見学は予約制で可)。
 
⑬ 荒川二丁目停留所〜(都電荒川線)〜三ノ輪橋停留所
 
⑭ ジョイフル三の輪 
商店街の努力で街路に長大な天蓋が付設され多業種が構成する旧来型商店街が現存している一例です。
 
⑮ 浄閑寺(投込寺) 
千住宿に存立した花街や吉原にも近く大火の犠牲となった遊女等も合葬されました。江戸四宿のうち内藤新宿の成覚寺、品川宿の海蔵寺と同様の目的、機能、地理的背景を持つ投込寺といえるでしょう。
 
⑯ 簡易宿泊所街 
周辺地域は江戸の朱引と墨引の中間に当たり市街地化が進んでいなかったことや荒川の水利もあり近代以降に多数の大規模工場が進出、その従事員のため木賃宿が存在しました。高度成長期には一層増加した出稼ぎ労働者などの需要に対応して成立しました。東北地方出身者が多かったことも、この地域性と関連すると思われます。現在は数軒を残すのみとなっています。
 
⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)常磐線を挟んで北側に隣接する回向院と合わせて江戸の小塚原刑場跡とされています。境内の地蔵尊は刑死者を慰霊するため江戸中期に建立されました。品川宿に近い鈴ヶ森刑場も同様の地理的背景があると思われます。
 
⑱ ゴール:南千住駅
 
4.行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
 
① 地理院の現在地図
約9.6kmの歩行・東京メトロ・都電荒川線、約3時間14分の移動時間、約20mの高低差(最高標高21m、最低標高1m) 
 
② 今昔地図(1896年〜1909年、明治29年〜明治42年)
 
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます。」「地図中央でコメントを確認できます。」さらにクリックすると「地図を拡大できます。」)
img20250308112543052709.jpg 地理院の現在地図約9.6kmの歩行・東京メトロ・都電荒川線、約3時間14分の移動時間、約20mの高低差
(最高標高21m、最低標高1m)
img20250308112543045627.jpg 今昔地図
(1896年〜1909年、
明治29年〜明治42年)
現在の東北線・常磐線の鉄道網は開通して、沿線の日暮里・南千住地区は市街地化されていました。
現在の京成本線と東京メトロ千代田線は未開通で、沿線の町屋周辺は農地が広がっていました。
img20250308112543053694.jpg 地形図日暮里周辺は、武蔵野台地の東端と東京低地(沖積低地)の地形境界にあたり、荒川区唯一の台地です。
道灌山切通は、侵食された台地部分が極めて狭いところを切り通しています。
町屋・三ノ輪橋・南千住周辺は荒川区の大部分を占める低地地帯です。

 
5.巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生です。)
img_0830.jpg ① スタート日暮里駅北改札西口(谷中方面)に集合 img_0831.jpg ② 御殿坂駅前の緩やかな坂。向かって左側は台東区なので、すぐに横断歩道を右側に渡ります。 img_0832.jpg ③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡)江戸庶民の月見の名所。かつては河口付近の沖積低地の広漠たる平野から月が昇るのが眺められたはずですが建築物によって、その景観は失われました。月も集合住宅の屋根から昇るのでしょう。また太田道灌が地形的特徴を活かして物見を設けたという伝承があります。 img_0833.jpg ③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡) img_0834.jpg ③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡) img_0835.jpg ③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡) img_0836.jpg 富士見坂現在は、ビルが立ち富士山の全景を見ることできませんが、「関東の富士見百景」に選ばれています。 f6513a98-16b6-4173-9a5a-3be8a0d3f145_1_105_c.jpg ④ 浄光寺(雪見寺・六地蔵)江戸の雪見の名所でした。しかし、建物にさえぎられて現在その景観はありません。近代化による景観喪失の一例でしょう。また境内に江戸中期と後期の二体の地蔵が見られます。江戸四宿などに建立された江戸六地蔵と異なり東都六地蔵の一とされます。地蔵信仰には地域鎮護の意味合いがあり、台地と低地の地形境界にある地勢と関連するかも知れません。 img_0841.jpg ⑤ 諏方神社諏訪大社の分社(「方」の文字が使われていることに注意)で日暮里、谷中の総鎮守とされます。台地の突端に位置し、かつては筑波山が見えたといいます。 img_0844.jpg ⑥ 地蔵坂浄光寺に六地蔵があることから命名されました。日暮里崖線の段丘崖を緩傾斜路によって通行する目的で造られた崖際道です。崖側に土留が設置され石段の手摺の支柱が半ば埋まっており緩慢な土砂の流下が長期間継続していることがうかがえます。 img_0845.jpg ⑦ 道灌山切通台地は標高22~3メートル、低地は同1~5メートル、この切通部分は18~20メートルの標高差があると思われます。段丘崖に直交し人為的な地形改変によって造られた切通坂で近代以降、車両通行などのため更に切り下げられ拡幅されたと思われます。付近に道灌山の通称地名があります。 img_0846.jpg ⑧ 京成線道灌山通駅跡昭18年に戦時統制で不要不急駅として営業休止、そのまま廃止されました。開通当初の京成線は上野から新三河島の間に博物館動物園、寛永寺坂、日暮里、道灌山通と路面電車並みの駅数が開設されました。現在は駅の遺構は認められません。後年、同じ場所に山手線と千代田線の西日暮里駅が開設されたのは現状のとおりです。 img_0847.jpg ⑨ 西日暮里駅〜(地下鉄千代田線)
〜町屋駅
img_0848.jpg ⑪ 町屋駅前〜(都電荒川線)
〜荒川二丁目停留所
img_0849.jpg ⑪ 町屋駅前〜(都電荒川線)
〜荒川二丁目停留所
img_0850.jpg ⑫ 三河島水再生センター
・荒川自然公園
このセンターは日本で最初の近代的な下水処理施設で1922年(大正11年)に運用を開始しました。現在の処理対象区域は荒川・台東区の全域、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部です。処理された水は隅田川に放流されます。施設の上部は緑に覆われた荒川自然公園(荒川区立)として利用され、遊歩道、池、野球場、テニスコートなどが整備されています。なお、都電荒川二丁目停留所の前に赤レンガのレトロな建物が目に入りますが、これは旧三河島汚水処分場ポンプ(正式には漢字表記)場施設で国重要文化財に指定されています(見学は予約制で可)。
img_0851.jpg ⑫ 三河島水再生センター
・荒川自然公園
img_0853.jpg ⑬ 荒川二丁目停留所〜(都電荒川線)
〜三ノ輪橋停留所
img_0855.jpg ⑬ 荒川二丁目停留所〜(都電荒川線)
〜三ノ輪橋停留所
img_0856.jpg ⑭ ジョイフル三の輪商店街の努力で街路に長大な天蓋が付設され多業種が構成する旧来型商店街が現存している一例です。 img_0858.jpg 王子電気軌道本社跡都電荒川線の前身、「王子電気軌道」により1927年
(昭和2年)に建てられた本社ビル跡です。
img_0859.jpg ⑮ 浄閑寺(投込寺) 千住宿に存立した花街や吉原にも近く大火の犠牲となった遊女等も合葬されました。江戸四宿のうち内藤新宿の成覚寺、品川宿の海蔵寺と同様の目的、機能、地理的背景を持つ投込寺といえるでしょう。 img_0860.jpg ⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)常磐線を挟んで北側に隣接する回向院と合わせて江戸の小塚原刑場跡とされています。境内の地蔵尊は刑死者を慰霊するため江戸中期に建立されました。品川宿に近い鈴ヶ森刑場も同様の地理的背景があると思われます。 img_0861.jpg ⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)首切地蔵 img_0862.jpg ⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵) img_0863.jpg ⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)回向院 img_0864.jpg ⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)観臓記念碑 img_0867_2.jpg ⑱ ゴール:南千住駅

地理の会 講演会


1. 日時  :2024年11月17日(日)13:30〜15:30  
 
2. 開催場所:JR立川駅前「ミライズ タチカワ カンファレンスルーム 9階メインホールB」 
 
3. 出席者 :30名  
 
4. 講演  :「珍しい地名・駅名・踏切名」
 
5. 講師  :今尾恵介さん(地図研究家、日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査、地理の会会員) 
 
6. 講演概要: 
地図、地形、鉄道に関する数多くの著作をお持ちの今尾恵介さんに、「珍しい地名・駅名・踏切名」についてご講演頂きました。 
1)珍しい地名 
国内に存在する28ヶ所の珍しい地名について、地理院地図、『方言漢字事典』、『角川日本地名大辞典』、訪問先写真などの資料を用いて、それぞれの地名の表記と読み、由来、地形、地質、土地条件および気候風土などの詳細を紹介していただきました。 
2)駅名 
東京都多摩地区の駅名などを例として、駅名の命名由来について、神社名、大字名、自治体名、施設名およびターミナルの歴史に基づいて紹介があるとともに、駅名の類型についての体系的な分類や、駅名の改称事例についても興味深く研究された成果をご紹介いただきました。 
3)踏切名 
一般的に注目されない9ヶ所の踏切を実際に訪れて、踏切名の由来・分類を紹介。地元の方から聞き取りを行うなどにより、踏切名には地域の歴史がそのまま凍結保存されている面白さがあることを披露されました。 
 
講演は多数の写真や地図を駆使してわかりやすく説明していただき、出席者一同、充実した講演に大満足でした。
 
また、今尾さんから地理の会へ、新刊『地名の魔力』を頂戴しました。(下記の本の表紙をクリックすると、出版元にリンクします。)

地理の会 秋の巡検
『箱根外輪山に関東大震災の遺構跡と地質を訪ねて
~根府川でGeo散歩!~』


 
テーマ
地理の会の秋の巡検は根府川が舞台。今回は、根府川を中心に関東大震災のときに起きた土石流の災害と、箱根外輪山上に位置する根府川の地質について観察しました。根府川はあまり有名な場所ではないですが、小田原からわずか2駅目に位置する風光明媚な地域です。中心はJR根府川駅となりますが無人駅です。実は根府川は箱根の古期外輪山が海に迫っている急崖地に立地しており、箱根から流出した溶岩の露頭が海岸にあるなど格好の地質の教室にもなっています。また大正時代、関東大震災が起きた時にはそういった箱根火山溶岩や火山灰(テフラ)が大崩壊を起こし、根府川集落に壊滅的な被害を与えたり、当時の根府川駅後背地の大崩壊で駅舎や列車がもろとも目の前の海中に没したとも言われています。今回はそういった大崩壊の爪痕や人災を記念した災害伝達碑や流れ下った巨石の実物や土石流に埋まった磨崖仏などを訪ね、午後は海岸に出て箱根溶岩の露頭を観察したり、海岸にある採石跡などを見学しました。
 
1.日時 2024年10月13日(日)10:00-15:00
  
2.講師 箱根ジオパーク推進室事務局次長 笠間講師(日本地質学会理事)
   参加者 13 名 
  
3.巡検行程
約3.9kmの歩行、約4時間25分の移動時間、約88mの高低差(最高標高88m、最低標高0m) 
 
①スタート:JR東日本東海道線根府川駅(構内の震災記念碑見学)
 
②根府川駅後背地地すべり源頭あと
 
③片浦小学校
 
④ 根府川公民館(遠望)
 
⑤ 岩泉寺
 
⑥ 根府川関所跡
 
⑦ 釈迦堂
 
⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)
 
⑨ 白糸川を渡る
 
⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)
 
⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅

4.行程地図

上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて

① 地理院の現在地図

② 地形図

(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」さらにクリックすると「地図を拡大できます」)
img_9799_20241203150206001.jpg 地理院の現在地図約3.9kmの歩行、約4時間25分の移動時間、約88mの高低差(最高標高88m、最低標高0m) img_9800_20241203150213527.jpg 地形図根府川は箱根の古期外輪山が海に迫っている急崖地に立地している様子がわかります。
 
5.  巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生)
img20241107173212844013.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
根府川駅からスタートです。まずはスタート前に駅構内にある関東大震災殉難碑を見ます。ホテルの利用客などが気付かず通り過ぎますが、是非注目してほしい碑です。
#2.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
この石碑は国土地理院の地形図に「災害伝承碑」として記載されています。後述の岩泉寺入口にある石碑も地形図にあらわれています。この記号の地形図への掲載は各自治体からの申請によるもので、大震災をしっかり後世に伝えていこうという根府川地域の強い思いを感じました。
#3.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
裏面を見ると昭和48年建立です。関東大震災が起きたのが1923年(大正12年)で震災半世紀を記念して1973年(昭和48年)に駅員らによって建立されました。
img20241107173351718119.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
ホームには跨線橋が設置されていますが、そのまま改札口に繋がっています。海岸のきわにあってすでにこの駅の標高は50m。急崖の上にあることが分かります。秋の好日、相模湾には釣り船がゆらゆらと揺れていました。
#5.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
根府川駅頭の辻説法よろしく、根府川駅周辺で起きた関東大震災時の災難について笠間先生よりご講義をいただきます。説明も絵もわかりやすい!
img20241107173430031440.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
根府川駅の跨線橋から見た東海道線東京方面。実は根府川駅は1番線がありません。(上り2番線から)写真に写っている左側のホームのようなものが貨物積み下ろしのための1番線だったと言われています。関東大震災の際には駅舎もホームも一切が流出したとの記述から震災後の構築の可能性もありですが、一方土砂は一番ホーム上を滑り落ちたという見方もありハッキリしません。
img20241107173440075588.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
海中に没した列車を引き上げたことを報じる当時の新聞。(いさぼうネットより)
img20241107173453940880.jpg ①スタート:JR東日本東海道線
根府川駅(構内の震災記念碑見学)
根府川駅前の小さな広場にはジオサイトの看板が建っています。その地図でまずは根府川の地形を把握し、そして実は関東大震災が起きたとき、付近の白糸川上流から時速50kmで流下したきた土石流と根府川駅が滑落するほどの巨大地滑りとの二大事案が勃発したことを学びます。
img20241107173502155049.jpg ②根府川駅後背地地すべり源頭あと片浦小学校の下まで登ってくるとカールのようなスリバチ状の地形が広がります。今は家や畑が広がっていますが、ここが震災時に根府川駅周辺で起きた大崩落の跡とのこと。ここのカール状の土砂が火砕物(軽石に富む)を境界面として落ちたんだとすれば膨大な量の土砂が下方を襲ったことになります。 img20241107173510075161.jpg ③片浦小学校片浦小学校まで上がってみました。小学校の裏手、竹やぶ斜面の下部にも擁壁がありましたが、使われている石材が根府川石とのこと。根府川石は、箱根古期外輪山溶岩で、白糸川(根府川の西方)の中流、高度340mの地点の、この川を横切る岩脈から流出した輝石安山岩です。噴出地点より下流の海岸まで扇状に分布していると云われます。この学校がまた崩れることはないのか?というメンバーの心配の声もありました。根府川石の特徴である板状節理にしたがって切られている感じが良くでていますね。 img20241107173526655795.jpg ③片浦小学校今日は静かな湘南の海です。遠くに見える枕のような真鶴半島、手前が赤馬の岩礁を従えた岬、さらにその手前が江の浦です。雁行する岬たちが一幅の美しい絵のように見えます。これだけでも巡検に来た価値あり! img20241107173535812187.jpg ④ 根府川公民館(遠望)電柱に隠れてしまっていますが、その向こうの高台が「秋葉山」と呼ばれ、そこに建つ公民館に被災住民たちが避難し共同生活が始まったと伝えられています。斜面に突き出した岬状の地形で箱根溶岩流が分厚く滞留し安定的な地層なのかも知れません。 img20241107173545022509.jpg ⑤ 岩泉寺急崖を岩泉寺へと下りていきます。この下りはかなりの急崖。根府川駅のあたりは箱根火山の裾野が海中に没する地点であるわけですが、その箱根火山の急勾配に加え、波の波食作用や関東大震災での地滑り源頭の急崖の形成が相乗的に作用しているように思えました。 img20241107173553779509.jpg ⑤ 岩泉寺墓地に石がありましたが本小松石だとのことです。小松石はここ根府川より南の真鶴に産する溶岩類です。時間が経つとこのような表面に星状の斑点が出るとのことです。なかなか渋い味わいですね。 img20241107173601036528.jpg ⑤ 岩泉寺岩泉寺通用門から寺にアクセスさせてもらいます。失礼しま~す! img20241107173609837286.jpg ⑤ 岩泉寺なかなかに立派な岩泉寺です。もともとは白糸川右岸の釈迦堂の位置にありましたが、洪水で流されてこの高台に移ってきました。関東大震災のとき、被害を受けなかった住人からお米が供出されそれを岩泉寺の和尚が集めて放出したと伝えられています。 img20241107173618619245.jpg ⑤ 岩泉寺岩泉寺にある「大震災殃死者供養塔」の碑。「殃」は白川静「字統」によれば「わざわい」という意味。だから「殃死」とは災害死のことです。あまり使わない字ですね。地形図にも伝承碑としての記号の記載が確認できました。 img20241107173627677812.jpg ⑤ 岩泉寺石碑の「甚だ悲惨の至り」と書かれた文字が涙を誘います。地理の会会員がまとめられている「いさぼうネット」記事によると「生き残った住人はあまりの恐ろしさに誰となく「南無妙法蓮華経」と唱えると、そこに居った皆も声高く唱えました。余震が来ると「マンザ、マンザ」と唱えながら、地震が治まることを祈っておりました」とあります。「マンザ」は、邪気を払う呪文のようなものかも知れません。 img20241107173636301227.jpg ⑤ 岩泉寺大正14年、震災からわずか2年で建てられたものです。ちなみにこの石材は板状節理を利用した根府川石の石碑です。根府川石の「湾曲した板状節理」の性質をよく表しています。根府川石は天正年間(1573-1591)に開発が始まったといわれます。  img20241107173644710308.jpg ⑥ 根府川関所跡白糸川を新幹線の高い高架をくぐって上流へと歩を進めます。 img20241107173653884962.jpg ⑥ 根府川関所跡白糸川の土石流でもたらされた大きな岩塊が関東大震災の記念として白糸川左岸集落内に置かれています。水による災害は発生しなかったようなので土石崩れの勢いだけでこの大きな石が上から流れて来たことになります。ちなみにちょうどこに根府川道(東海道の脇往還)に設けられた江戸時代の根府川関所がありました。 img20241205145106572035.jpg ⑥ 根府川関所跡新編相模国風土記稿によると、このあたりに根府川道(東海道の脇街道)が通っておりその関所(根府川関所)が置かれていました。江戸初期1615年(元和元年)から明治維新まで約250年間にもわたって続いた関所です。具体的な場所は目の前の白糸川の川底にあたる位置と記述がありますが、白糸川は震災前は現在よりも少し北側を流れていたと言われており(だから関所自体は当時陸地)、大震災の土石流のデブリにより川の流路が変わり関所跡の上を流れるようになった可能性があります。 img20241107173715416070.jpg ⑥ 根府川関所跡案内板にあった根府川関所の絵。「石火○(莢?)五挺」と書かれています。箱根に次ぐ重要な関所だったゆえ、取締りのために火器のようなものも装備していたのでしょうか。 img20241107173725937619.jpg ⑥ 根府川関所跡笠間先生による黒板を使った解りやすい説明!ここでは成層火山がどうして火口を中心として裾野を引くのか、また溶岩の流れる際にできるクリンカー構造について丁寧な説明を頂きました。 img20241107173734215594.jpg ⑦ 釈迦堂東海道線の白糸川鉄橋。大洞山からの山津波で流されたあと再建されましたがほぼ同じトラス構造だったといいます。今はかながわの橋100選のひとつ。それにしても高いところを土石流が通過したようでコンクリート造りの橋脚6本のうち5本が切断され、橋脚3本と橋桁1本は100mほど下流の海中に没しました。 img20241107173744600403.jpg ⑦ 釈迦堂震災時、大洞地区からの土石流(山津波)と落橋してしまった白糸川鉄橋の写真。息を呑む光景です。写真右手にあったであろう根府川駅が斜面とかしてしまっている事も確認できるように思います。(いさぼうネットより) img20241107173754947632.jpg ⑦ 釈迦堂この白糸川鉄橋の橋脚石積みはレンガの長手だけの段と小口(短い)だけの段とを交互に積み重ねる「イギリス積み」と呼ばれるもので明治期に伝わった古い積み方。これが残っていることは土石流の中にあってこの礎石が残ったという見方もできるかも知れません。講師談ではそれは何とも言えないとのこと。 img20241107173806298781.jpg ⑦ 釈迦堂東海道線の白糸川鉄橋の高架の下あたりで白糸川を渡ります。河口を見るとすぐそこで白い波が打ち寄せていました。海岸にこれほど近いのにすでに標高差があることは、往時の土石流の堆積を彷彿とさせます。 img20241107173816156390.jpg ⑦ 釈迦堂根府川の釈迦堂です。この中に磨崖仏の釈迦像があります。
ここはかつての岩泉寺があったところ。寺はその後洪水で流されて江戸時代に高台に避難し、磨崖仏は残されてしまいました。
img20241107173825400022.jpg ⑦ 釈迦堂釈迦堂のお釈迦さまは磨崖仏です。
釈迦堂基部より一階分ほど掘り下げられた深いところにあり15段の階段をおりて拝めます。元は、根府川集落地表面に対して15段の階段をあがった見上げるような位置に彫られていましたが、大洞地区を発生源とした東京ドーム一杯分の土石流により埋没しました。土石流の驚異的な規模感を感じるとの声が出ました。かかる災厄の中にあって無傷で掘り出されたことから霊験いやちこな仏様として地域の尊崇を集めています。
img20241107173834486194.jpg ⑦ 釈迦堂この磨崖仏が彫られた岩は米神溶岩。米神は小田原の地名で、米神溶岩は玄武岩質の安山岩を指します。講師に懐中電灯で照らしていただいています。なお「米神」は珍しい地名ですが「弘法大師が水を断たれ、生米を噛んだという伝承」からそう言われます。真偽のホドは?ですが、一応”米噛み”が由来だったんですね。 img20241107173843829603.jpg ⑦ 釈迦堂釈迦堂に設置された説明板。根府川地誌の語り部、内田一正氏が設置したもの。これによると寛永年間(徳川家光の時代)からこの場所は地震や津波に見舞われ、安寧を願いこの地に岩泉寺を造立したがやがて1659年の洪水で流され3年後に高台に移転したといいます。なお内田一正氏は10歳のときに大震災に遭い後に地域の災害を克明に記録した人です。 img20241107173852579732.jpg ⑦ 釈迦堂磨崖仏は物理的に移動できず残置され、その後、関東大震災による土石流で埋まってしまって現在のような地中深く掘った形で拝めるようになったという。 img20241107173902956014.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)海岸には真っ赤な石が見つかりますが、石に含まれるFe(鉄)分が酸化して赤化しました。もとは磁鉄鉱だったものが赤鉄鉱に変化して磁性を失っています。地球の1/3は鉄でできており、鉄を作る原石の主なものは赤鉄鉱や磁鉄鉱です。鉄(Fe)はいろいろな元素と結びつきやすい元素でさまざまな形態があることで知られています。 img20241107173912093328.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)メンバーのMさんが磁石を持っていたので石に近づけてみると、石によっては磁性を持っているものがあってビックリポン! img20241107173922596710.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)笠間先生に詳しく石の解説をいただきます。平べったい形は、渚礫の特徴です。火山岩は内部の空気により発泡の度合いが違い、それが石の”顔”にも表れます。素材により色の違いもさまざま。 img20241107173932315688.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)火山岩にしばしば見られる斑状組織。白い鉱物が斜長石です。黒い鉱物が輝石です。 img20241107173942417139.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)石に付着した白いものは「ヤッコカンザシ(奴簪)」というゴカイの仲間の生物痕。環形動物で石灰質の棲管を作ってその中で生活します。海面付近に棲息することを好むため、石に残った棲管はそこに海面があったことを示し、隆起もしくは海退の有力なエビデンスとなります。なおこの石は高波で打ち上げられたものです。 img20241107173952369674.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)箱根火山の溶岩流が露出して海面に接しているところは格好の石切り場として利用されました。 img20241107174002536783.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)右の人と真ん中の人の間のテーブル状の釣り人がいる場所は石切りが行われた場所だという。江戸城などの石垣の材料として切って運ばれていったらしい。当時は波との闘いで命がけで採石していたに違いありません。 img20241107174015700916.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)採石加工あと。板状節理の広い部分をねらって石切りがされていました。当時石切りは計画的に行われたと伝えられており、需要と供給の関係で打ち切りになり放置されたと推定しています。石切りには二つの方法(クサビ法・溝法)がありこれはクサビ法によるものです。 img20241107174027104936.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)モツ料理に出てくるような内臓の内皮状の紋様は「塩類風化」と呼ばれるもの。風化は物理的なまたは化学的な要因で進行しますが、「塩類風化」は物理的風化で、溶岩内部に浸透した塩類が乾燥で結晶化する際生じる力で岩石を壊す現象です。塩の熱膨張だったり水和作用で生じる応力が起因するケースもあります。 img20241107174037415157.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)大根から陸地を見上げます。東海道本線が見えますがその上の急崖は根府川石の採石がされた結果できたもの。比較的人工的で平面的な崖が見えています。 img20241107174045777300.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)根府川大根の露岩から見る小田原市街。遠く丹沢山塊の右から丹沢大山・二の塔・三の塔・雲の下の塔ノ岳が見えています。その手前のアスピーテ型の曲線が曽我兄弟でも有名な曽我丘陵。丘陵の手前側の麓は実は断層崖でフィリピン海プレートと北米プレートの境界が走っているところになります。 img20241107174057718042.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)クリンカー構造が見て取れます。クリンカー(Clinker)とは、モノを燃焼させたときに高温により灰が焼結・溶解してできる石状のものを指し、熔岩が流れるときに空気に接する表面が冷やされて固体状の塊(トンカツの皮)ができそれがまた流れながら液体の熔岩に取り込まれてできる構造です。 img20241107174111938182.jpg ⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)これは礫状のクリンカーが風化して取れたものか、あるいは塩類風化によるものなのか、あるいは双方の効果でしょうか。 img20241107174123345304.jpg ⑨ 白糸川を渡る白糸川左岸から右岸へと徒渉します。今日は満潮のせいか汀線を石伝いには行けず、濡れたくない面々は写真の道路高架のあたりまで”遡行”して対岸に渡りました。ちょっとワイルド系巡検! img20241107174133473163.jpg ⑨ 白糸川を渡る白糸川の急流を何とかみんなで渡り終えました。自分も含め一部の人はしっかり靴を濡らしました。一部の人は濡らして気持ちがいい!と喜んでいました(笑)。 img20241107174142432152.jpg ⑨ 白糸川を渡る白糸川の右岸(南側)に来ました。白糸川右岸の熔岩は、米神熔岩グループに属します。(米神とは根府川よりも北(小田原より)の集落名です)岩質は玄武岩質安山岩で苦鉄質を含み黒っぽい印象です。年代は30万年前から25万年前と推定されます。写真の溶岩もまたクリンカー構造が指摘できます。 img20241107174154334322.jpg ⑨ 白糸川を渡る植被に覆われていますが、熔岩露頭です。露頭下部は米神熔岩で玄武岩質ですが、露頭上部は根府川熔岩に属し安山岩~デイサイトになります。両熔岩とも噴出時代は同時期ながら前者は成層火山的な噴出、後者は単成火山的な噴出だったとみられます。根府川熔岩グループから根府川石が採取されました。 img20241107174209872802.jpg ⑨ 白糸川を渡る白糸川右岸海岸は暗色系の石が多く、左岸の白色系の海岸とは違う印象。沿岸流により海岸堆積物は同質になるようにも思われますが、陸地側から流れ下った米神溶岩成分が海岸の堆積物の色調にも影響しているように見えた。根府川石は白糸川340m地点で噴出し南北で岩質が違うという記述もあったが、それが影響している可能性もあるのでしょうか。暗黒色系はより苦鉄質が多いことを意味しています。 img20241107174221161140.jpg ⑨ 白糸川を渡るこの露頭では熔岩ー火山灰ー熔岩という成層火山の断面構造が見て取れました。火山灰の関東ローム層は多摩ロームに相当しているとのことでした。 img20241107174232078153.jpg ⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)緻密で硬質な溶岩面の露頭。ここが凸状に風化に抵抗し残っている感触。いったん降った火山灰などでできる起伏の凹部にまとまって流下してきた結果溶岩塊になった可能性があります。 img20241107174240928304.jpg ⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)これも溶岩が流下したときに発生したクリンカーではないかとのこと。 img20241107174321544707.jpg ⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)海岸からは真鶴半島がよく見えました。真鶴半島を形成した火山活動は約15万年前の事と推定されます。また真鶴半島の形成に先立つ18万年前から15万年前頃に現在本小松石として採石され石材として広く利用されている溶岩が噴出しています。
突端に見えるツノ様の岩塊は三ツ石と呼ばれていますが、以前は笠島と呼ばれる小島でした。近世に採石が行われた結果地形が変わってしまったとのことでした。
img20241107174333698586.jpg ⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)白糸川の南側の海岸にあった溶岩。クリンカー構造がよく分かります。 img20241107174342542709.jpg ⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅根府川駅へ戻ります。
この道は、昭和のいや大正の匂いのする屈曲した昔ながらの田舎道で、ここを芥川龍之介「トロッコ」で描かれた人車鉄道が通っていました。『われはもう帰んな』と土工に言われ不安で一杯になった少年・良平のことを思いだしました。
img20241107174353875946.png ⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅当時の人車鉄道。下等の乗客は登りでは鉄道を下りて車丁と一緒に押して上がりました。かなり原始的なものでした。(いさぼうネットより) img20241107174403423789.jpg ⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅根府川駅のホームで。根府川駅の番線は2番から始まるという、鉄道マニア垂涎の構造です。震災時に地滑りで海中に没した1番線ホームは海中8mのところにありダイビングスポットになっているとのこと(笠間先生資料)。のちに再建されたと思われる1番線ホームは貨物の積み下ろし用に使われ、それが廃止になり現在は2番線からスタートということになったという歴史の整理かと思いました。しかし当時の1番線の上を崩落した土砂が通過したので、1番線は崩壊したかったのだという意見もあるようでハッキリしないようです。 img20241107174412100933.jpg ⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅根府川駅より滑り落ちた当時の客車。悲惨さが伝わってきます。(いさぼうネットより)

 

地理の会交流会(オンライン)

1.  日時:2024年8月10日(土)15:00〜17:00
2.  開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3.  出席者:23名
4.  内容:
「城、城下町特集」
城の見方の基本、城下町の話などの話題提供・質疑応答・城見学の体験談など。
(各項目は、スライド機能です。手動のスライド送り⚪︎をクリックして閲覧してください。)
 
4-1   講話:「城郭と城下町」 城郭の歴史と変遷・立地する地形と地質・城下町の構造と変貌
講師:坂井尚登さん(会員、国土地理院)
 
今日は「城郭と城下町」というタイトルで、①「城郭の歴史と変遷」、②「立地する地形と地質」、③「城下町の構造と変貌」という話でお話をさせていただきます。
 
①「城郭の歴史と変遷」
1) 始原的な防御施設
 
img20241010103612167747.png 人類の歴史っていうのは、ご存じの通り悲しい話ですが、戦いの歴史です。城郭というのは、生身の人間をどう守るのか、そういったことに知恵を絞った結果生まれたものです。ここに写っている写真ですが、ヨーロッパ、ポーランドでの農家の垣根なのですが、始原的な防御施設はこういった柵とか、杭とかこういったものから始まっていると思います。 img20241010103617813806.png 日本ですが、吉野ヶ里遺跡に復元されました柵と空堀、乱杭(らんぐい)で防御していました。右の方に柵が建っておりまして、その下がこの当時まだ土塁がなくて、いきなり堀になり空堀になります。左の方に林立しているもの、これが乱杭というものです。乱杭で相手を足止めしている間に柵の間から弓を打つという防御施設です。 img20241010103700626588.png 現代にも、実は乱杭とか逆茂木(さかもぎ:枝の付いたままの樹木を地面に固定、もしくは単に横たえただけという非常に簡便な防御施設)っていうのがあります。ベトナム戦争の時に米軍が作成しましたバンジスティックで、日本の乱杭と同じものなのですが、これは夜間にベトコンが侵入するのを防ぐために作られたものです。空堀と乱杭の組み合わせ、まさしく昔のお城の作り方を今でもやっているということです。
2)ヨーロッパの城郭の進化
img20241017153201190791.png これは、モット・アンド・ベイリーというヨーロッパの原初的な城の形です。小高い丘(モット)に築いたダンジョン、天守というか櫓というか、石か木の塔です。それと平野部を堀で囲んだベイリーの組み合わせになります。通常時はベイリーの方で暮らしていて、何か事があったらモットの方に登って立てこもるという形のお城です。非常に簡便な施設ですが、こういったものから西洋の城郭は始まっています。 img20241017153213416697.png モット・アンド・ベイリーから下った時代に胸壁(きょうへき)というものが作られます。石やレンガで作った凹凸のある壁です。中国では女墻(じょうしょう)と言っています。防御側の人員を、敵の矢や石から保護して、比較的安全に敵を攻撃するための施設です。 img20241017153228579966.png 中世ヨーロッパの石造りの城郭です。これはフランスのカルカッソンヌです。城内に街が収まっている城塞都市でもあります。大陸、玄界灘の向こうの人たちはみんなお城というのは街を囲い込むものでした。レンガまたは石で作ったりしますけど、垂直に近い壁を作ります。カーテンウォールといわれる城壁です。その間に、石塔がいくつか建ちます。塔とか 、城壁には矢狭間、矢放つための狭間(さま)があります。張出歩廊っていうのは、城壁の外側に張り出して城壁の真下を打てるというような装置です。最初の頃は木で作られています。木で作ると火矢がかけられて燃えてしまいますので、後にはもう少し凝ったものもあります。ただ、非常に簡便かつ臨時的な施設ですので、木で作ることが多かったようです。日本語に直訳する言葉はないのですが、役割としては石落としになります。空堀(モート)と壁の組み合わせというのは、東西を問わず普遍的な防御施設です。 img20241017153236063552.png だんだん手が込んでくるようになります。これは、十字軍が、シリアに築いたクラク・ド・シュバリエという城なのですが、当然お城の場合は門が戦いの焦点になります。その門の防御を強化するために、大きな櫓は天守(キープ)とかドンジョンとか言うのですけど、その大掛かりな櫓を一番外側の門に持ってくるようになります。これはキープ・ゲートハウスと申しますけども、この門の前面に、さらに小さい塔と門があるかと思うのですが、これは雍城(ようじょう)というもので、中国とか朝鮮ではこういう風に言います。ヨーロッパでは、バービカンと言いますが、こういったものを設けます。雍城とかバービカンというのは、日本の城の枡形に類似した形で同じような働きをするような遺構になります。 img20241017153251745891.png そういう風に進歩してきた中世城郭なのですが、大砲が出てくると、垂直の石やレンガの壁というのが非常に無力化されて、中世城郭の命が終わってしまいます。そうすると今度はどういうことになるかというと、その城郭を、宮殿として使うようになるわけです。これは仏のシュノンソー城です。左側のキープ(天守)は、もう現在では、お城の雰囲気を出すためだけの飾りにしかなっていません。後世に造られた右側の宮殿、これがこの城の本体です。これはフランス王家の狩りの時の別荘として改造されました。この大きなタワーだけ残して、新しい方を作ったということです。新しい方も、左側と右側で構造が違うのが分かるかと思うのですが、これも段々と左から右に行くに従って新しいものになっていきます。城郭の宮殿化は、日本でも実は起こっていまして。戦国城郭が狭い本丸では、城郭が政庁化した幕藩体制になるとやっていけなくなりますので、二の丸・三の丸に城の本体が移っていく、もしくは城の外に出るようなことが起こっています。 img20241017153258942341.png これが狭間(さま)です。防御施設の狭間で、見ての通り狭い間ですね。字の通りです。左がヨーロッパの中世城郭の矢狭間になります。右が大阪城の一番櫓の石狭間です。石垣の石を削って作ってあるのが石狭間と言います。その上の四角い穴が鉄砲狭間です。ただし、どっちも使っているのが鉄砲です。大阪城の今ある遺構は、大阪夏の陣の後に、随分経ってから徳川氏が作ったもので、日本の近世城郭のほぼ完成形と言われています。ですから、もう矢狭間はほとんどありません。ほとんどが鉄砲狭間になっています。狭間というのは使用する武器によって形状が異なっていきます。
3)中国・朝鮮の城郭
img20241017155144228509.png これは中国の西安(長安)の城です。市街を囲む巨大な方形のプランで、煉瓦で築かれた高い城壁と林立する櫓群が、これを見る者を圧倒します。煉瓦でこんな高いものを作るのですから中国人もすごいことをやります。櫓は非常に、規則正しく建っていますが、日本の櫓と違って物見の役割を果たしているのですが、ここから敵を攻撃するという意図はあまりありません。 img20241017155154502758.png 西安よりもだいぶ新しくなりました。これは日本で大阪城を作った、さらに後に造られた李氏朝鮮の近世城郭、水原(スゥオン)です。行かれたことがある人もいるかと思います。城門の前面に半円形の城壁があります。これは雍城(ようじょう)と言います。ヨーロッパのバービカンと同じものです。門を守るための出城みたいなものです。左の方に、距離が遠いので、そんなに大きく見えないかもしれませんが、現地に行くとわかるのですけど、非常に大きな櫓があります。これは、砲楼、朝鮮語だとポルです。砲楼という名前のとおり、大砲を運用するための櫓です。塁線が複雑で横矢がかかるようになっています。雍城の脇に城壁がぐっと曲がっている場所があるのがわかるかと思うのですけど、雍城の中に入った敵をさらに後ろの方からも射撃できるような、そういう複雑な構造になっています。中国の西安の城は巨大さで相手を圧倒しますけど、これは非常にテクニカルな城で、文禄慶長の役の時に日本軍の鉄砲で散々な目に遭っていますので、朝鮮が戦訓を汲みまして、半島南岸に残された倭城から日本式築城を学んで築き上げたと言われています。朝鮮軍は日本軍を大砲で圧倒しましたので、そこで主に使う兵器は大砲になっております。ただ塁線の折れとかは、日本のやり方を大分取り入れています。
4)日本の近代要塞
img20241017172518812462.png 日本のお城ですが、後でまとめて出します。いきなり時代が飛びますが、由良要塞−友ヶ島砲台群です。幕末から明治にかけての戦争で、日本は、それまでの台場とかは全く外国船に対して無力だったことを悟りました。実際に鹿児島湾で、戊辰戦争とかで台場が実践をしているのですけど、全くほとんど有効性がなかったことがわかります。それで、いきなり近代要塞を作るようになります。近代要塞なのですが、当然日本に技術がなくて、ほとんどが、大砲から何から直輸入でした。最初はレンガも直輸入していました。だんだんと、自分たちで作るようにはなっていきますが、この由良要塞ができた頃は、明治20年から30年にかけてなんですけど、カノン砲は輸入品で、榴弾砲は国産できるようになっていました。こういったものが現地に残されています。 img20241017172537024146.png 一番上の写真が第二砲台です。戦後進駐した米軍に爆破処理を受けています。だから上のラインがガタガタになっています。その左下の写真が第一砲台の観測所です。鉄製のキューポラの上にコンクリートを重ねて、その上に土を載せて植栽を施しています。今、土がなくなってコンクリートが剥げかけている、そういう状態です。本来ならば、これをもっとカモフラージュしていました。その下の写真が第三砲台の棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)です。棲息掩蔽部は、兵員が待機して寝泊まりする場所になります。その右側の写真は、第二砲台棲息掩蔽部です。非常に綺麗な煉瓦で、焼き過ぎ煉瓦です。高温で焼いた耐水性の高い煉瓦です。 img20241017172601235109.png 佐世保湾と佐世保要塞です。湾口に砲台があるのですけど、時間の都合もあるので割愛しまして、石原岳堡塁というものだけお話しします。 img20241017172619152122.png これが石原岳堡塁です。堡塁というのは何かというと、敵の上陸軍と戦うための防衛施設です。砲台が敵艦との戦いに備えているものに対して、これは敵の歩兵と戦うための防御施設です。実はこの施設は、完存しています。最初に行った時はこんなに残っているところがあるとは夢にも思わず、日本の堡塁で完存しているのはここだけです。西海市が保存してくれています。行かれる機会があればぜひ行ってみてください。
5)旅順要塞−沿岸砲台群・堡塁・対壕・カポニエール
img20241017172649994498.png これが旅順です。左の図は、戦線の進み具合を色で表しています。右の図は、占領した後、日本軍が作った要塞の詳細図です。一番外側のラインと内側のラインに分かれて作られているのが分かるかと思います。内側のラインですが、これは清国が作った要塞です。外側のラインはロシアが作った要塞になります。この外側のラインが全然抜けずに日本が大変な死傷者を出しました。 img20241017172704966619.png これは旅順要塞の沿岸砲台群です。前に話したのが、内陸側を守る堡塁なのですが、これは、海からの敵艦と戦うための沿岸砲台です。狭い湾口を閉塞しようとして閉塞船を日本軍が出しますが、ここの砲台によって、この湾口にたどり着く前にほとんどが沈められました。今ここは、中国共産党の幹部の別荘になっていまして、残念ながら立ち入れません。出入口のところで必ず止められます。 img20241017172728961014.png これは二龍山堡塁です。ここをめぐって非常に激しい戦いがありました。外壕で囲まれているのですが、その外壕の中に、射撃を行うためのカポニエールという施設があります。カポニエールが活きている限り、要塞に取りつくことができないものですから、まずカポニエールを破壊する。これが要塞堡塁攻撃のセオリーになります。 img20241017172757825039.png これは日本軍が攻城用に掘った対壕の跡です。ジグザグと山を登っていく壕の跡です。何10年も経っているので非常に浅くなっていますけど、もちろん掘った時は、もっと深かったです。 img20241017172812438167.png これは二龍山のカポニエールで、破壊されたものです。日本軍が爆薬を地下壕から接近して爆薬を仕掛けて爆破しました。その時の状態のままで残っています。 img20241017172827143131.png これは西側の方の堡塁、二龍山ではないのですが、カポニエールと外壕です。基盤の岩盤を削って作った厚くて広く深いお堀の外壕です。その中を射撃するためのカポニエールという、組み合わせがこれで分かっていただけるかと思います。
6)野戦築城(塹壕)
img20241017174927093538.png 野戦築城は、広い意味でお城になります。これは、第1次大戦の時のイギリス軍の教本、塹壕の守り方作り方の教本です。野戦における塹壕等の構築も築城といいます。後にはコンクリート製の掩体(えんたい)とか、掩体というのは地下壕みたいなものですが、のちにコンクリート製のトーチカや鉄製の砲塔に進化していきます。 img20241017174936274373.png 第1次世界大戦の西部戦線におけるイギリス軍の塹壕です。歩哨、見張り当番だけは、起きているのですが、あとの人はみんな寝ています。そこに転がっているのが死人ではなくて生きている人間なのです。何人いるか分かりますか。歩哨以外は5人いるのです。なかなか分かりづらいと思うのですけど、戦争がいかに大変な仕事であるかというのはよく分かります。 img20241017174953849489.png これは上空から見た塹壕です。偵察機から撮影したものです。複数のラインからなる複雑な構造です。ジグザグに掘られているのは被害を局限するためのものです。1発砲弾が爆発しても、爆風で一掃されないように、ジグザグになっています。周りに白い点々がいっぱいあるかと思うのですが、これは砲弾が着弾してできた無数の穴なのです。第1次世界大戦時に塹壕を破壊するためには、確率論的には一定のゾーンに何発もの砲弾を打ち込むしかなかったのです。日露戦争で消耗した砲弾は、第1次大戦には1日か2日分にしかならなかった。それぐらいすごい話になっています。ですから第1次大戦の後、日本軍は総力戦の研究をするのですけど、総力戦の研究をやればやるほど日本が総力戦できないのが分かって、短期決戦を志向するようになっていきます。でも結局、総力戦になって第2次大戦は負けるわけです。
 
②「立地する地形と地質
1)段丘地形の模式図と城郭の立地
img20241017220342420836.png 立地する地形と地質の方に行きます。甲府付近の伊能図です。御城と書いてあるのは甲府城です。山を地面から見た絵です。城はランドマークとして描かれているだけです。伊能図で正しくきちんと求められているのは、道と海岸線、それから海岸線と後方交公法(測量法の一種)の目標になっている大きな山、それだけです。あとは、地図の飾りです。もちろんこういった図からは地形は分かりません。 img20241017220351883662.png 段丘地形の模式図と城郭の立地の関係を表したものです。日本の中~近世城郭の立地は段丘上が多いです。段丘の上は地盤が比較的良く、洪水に強いです。段丘崖(だんきゅうがい、段丘のへり)の急斜面を防御に取り込めて非常に好都合でした。
2)名古屋城
img20241017220758583560.png これがその典型ですね。名古屋城です。洪積台地の熱田台地の北西のへりにあります。北側と西側が段丘外で防御できます。ということは、東側と南側に堀を掘れば良いということになります。 img20241017220809570403.png 復元縄張図ですが、ほとんど今この状態で残っています。大手門(榎多御門)のところだけなのですが、ちょっと失われていまして、これは軍隊が壊したと思うのですけど、それを往時の姿に復元した図です。
3)鬼ノ城
img20241019144602201474.png 鬼ノ城(きのじょう)周辺の地勢図です。いきなり時代が遡るのですけど、古代山城(こだいさんじょう)です。古代山城はかつて記紀に記されていた朝鮮式山城と記録の残されていなかった神籠石(こうごいし)の2つに分類されていました。ただ、両者共に大陸からの技術導入で作られた山城であって、近年は古代山城と呼ぶようになりつつあります。 img20241019144635271883.png 吉備路から見上げた鬼ノ城です。鬼ノ城、非常に広大な面積を持っていて、どこに城があるのか、とりとめのないような場所にあるのですが、ただよくよく見ると傾斜変化しているところが両端にあることが分かるかと思います。 img20241019144648877619.png これが鬼ノ城の縄張になります。花崗岩山地の山頂緩斜面に建物を作って傾斜変換線に塁線を作っています。等高線の間隔が、濃いところです。白っぽい所は傾斜の緩やかなところですが、その間に作られているのがこの等高線図で分かるかと思います。 img20241019144704988126.png これは屏風折れの石垣と言われているものです。東の端っこの部分です。花崗岩のトア(巨大岩塊)があって、それを起点にして石垣を作っています。日本の後の中世城郭、近世城郭の石垣の積み方と全く違いまして、加工した大きな石をどんどんと積み上げていく形です。裏込めはないので裏込石がありません。 img20241019144746670238.png 復元された鬼ノ城です。石塁の部分っていうのが案外少なくて、版築土塁というものが多いです。これは復元されている角楼という部分と版築土塁、それから西門と門楼になります。 img20241019144803450698.png これは版築土塁の作り方です。まず石を並べます。斜面を切って石を並べ、その上にパネル工法で土をどんどん突き固めていく。そういう作り方をします。こういう土を積み上げたものですから、いくらつき固めたとしても、何10年、何100年経つと版築土塁の部分は消えます。そうすると列石だけが残って、それが大体の人の目に触れるわけで、最初は城じゃないという考え方をする人が多かったです。だけどその後、周りを発掘してみると、版築土塁がいっぱい出てきたということで、やっぱりこうやって作っていたのだろうなというふうに今は考えられています。
4)豊前長野城
img20241019145713877378.png これは豊前長野城で中世城郭です。これは花崗岩山地の尾根に築かれた山城です。表土はマサ土です。林道に行くと分かるのですが、パイピングの穴だらけです。200条以上の畝状堅堀(うねじょうたてぼり)があります。畝状堅堀は斜面に直交する方向に掘られた堀です。この城は、別名「豊前の針鼠」と言われています。 img20241019145722662844.png 花崗岩の産地ですので、こういった花崗岩塊がいっぱいあります。 img20241019145745532583.png これは、畝状竪堀です。斜面に直交する方向に掘られています。こういったものが一体何の防御で役に立つのかと思われる方も多いかもしれませんが、相手がやってくる場所を制限できるということです。それで、そこに向かって石を投げた照準を合わせておけば確実に殺せるシステムだと今考えられています。こういったものは急斜面には作られません。ここでご覧になって分かるように、緩やかな斜面に作られています。
5)賤ヶ岳
img20241019150315723582.png これは、賤ヶ岳周辺の地勢図です。ご存じの通り、柴田勝家と羽柴秀吉、後の豊臣秀吉ですが、天下を巡って争った戦いの場所です。多数の陣城とか、野戦築城が築かれております。 img20241019150327037304.png 都市圏活断層図に載せた賤ヶ岳の戦いの状況です。活断層図に歴史を載せた人間は、おそらく私が初めてだと思います。柳ケ瀬断層が形成しました隘路(あいろ)、隘路というのは、地形的制約によってそこを通るしかない交通路になるのですけど、ここの場合、北国街道が通っていました。柴田勝家は南に行きたい、羽柴秀吉は通したくない。北国街道は扇状地上を通過していまして、秀吉は、そこを土塁と空堀からなる長城線で遮断していました。余呉湖がありまして、余呉湖のずっと上の方へ行くと、茶色、ちょっと細くて見にくいと思いますが、茶色い線が書いてあるかと思います。これが長城線です。その峰々という峰には砦がいっぱい作っていました。あとアルファベット、大きなアルファベットAとBは風隙(ふうげき)です。風隙、非常に聞き慣れない地形用語だと思うのですが、かつての余呉川で、こちらの方向に流れていました。それでそこが低い谷になり、そういう低い谷があると、そこは道になっているのです。北国街道の脇道、萱並道という道がありました。ですから、どうしても長城線を遮断する道は、AからBより北側に作る必要がありました。あと、スモールa〜fは、断層によってできた三角末端面です。このABの風隙ができたのは、この柳ケ瀬断層が西落ち東上りの変位をしているからで、かつてABに流れていた川が、今は南に流れるようになったということです。 img20241019150355508377.png これは陣城のひとつ、堀秀政の東野山城です。堀秀政がいた場所が、一番高いところではないのです。407メートルの一番高いところじゃなくて、隘路が一番よく見える場所に築かれているのです。お城は目的があって作るものですから、その目的を果たすために作る、そういうことがよくわかります。 img20241019150414302932.png 賤ヶ岳砦から古戦場一帯を望んだ状態です。右側が大岩山砦ですぐ左に風隙、低く谷状になっているのが分かるかと思います。さっき言った東野山城というのが真ん中ぐらいにあるということです。 img20241019150429788491.png 米軍写真を判読したものです。こういう風に土塁が横断していたということです。1996年4月までは、その残存土塁の一番北東側の部分は残っていたのですが、小学校を作る時に壊されてしまいました。残念なことです。ただ、ソイルマークがあります。ソイルマークというのは、かつての堀の跡は地下水位が高いものですから、空中写真で黒っぽく見えます。それが非常にはっきり分かったということです。ですから、ここを発掘すれば必ず何か出てくると思います。
6)浦添城
img20241019151005183282.png これは、いきなり南にとびまして浦添城です。琉球王家ですね。実は尚氏なのですけど、第1尚氏と第2尚氏と分かれています。これは別のものです。その最初の方の第1尚氏、本城であった浦添城です。沖縄南部に見られる石灰岩堤という細長い稜線状の地形上に築かれています。その一番北のところに「浦添ようどれ」というふうに書いてあります。尚家の墳墓です。第2次大戦の激戦で破壊されました。近年復元されました。何で破壊されるかというと米軍が、北東側からやってくるわけです。そうするとここに立てこもった日本軍に大量の砲弾を浴びせるわけですが、「浦添ようどれ」は木っ端微塵になってしまいました。 img20241019151014776083.png これが沖縄南部のカルスト地形模式断面図です。恐竜が生きていた時代にできた石灰岩と違い、琉球石灰岩は500万年とか300万年です。非常に新しい石灰岩です。ただ、断層沿いの地下水が上下する場所は、再石灰化、再結晶化とかという現象が起きて、非常に硬くなります。硬くなった所は、直線的な高まりとして残ります。それであまり見たことのないような地形ができるわけです。
 
③「城下町の構造と変貌
1)江戸城
img20241019151830553075.png 江戸城周辺の地形です。レーザースキャナーによるデータから作成された詳細地形図です。ピンクのラインがあるかと思うのですが、これは、築城前の谷地形です。このEの部分は、本郷台地、人為的に掘り切っている今の神田川のところです。本郷台地を切り取って、南の駿河台と分かれています。江戸前島は、砂州ではなくて低い段丘です、波食を受けてできた波食台です。日比谷入江は文字通り入江で、ずっと江戸城の二の丸の辺りまで入り込んでいました。 img20241019151845784216.png これは5000分の1東京図測量図に描かれた江戸城です。参謀本部陸地測量部が明治初期に作成したものです。等高線による地形表現と彩色による土地利用、いわゆるフランス式のものなのですが、江戸城の資料としては唯一の実測図になります。今、いろんな会社のビルが立ち並んでいる場所です。この図では空閑地が多いです。ここは大名小路って名前が残っているぐらいで、大名たちの屋敷跡です。外曲輪、大手前あたりは、兵営とか官舎が建ち始めています。 img20241019151924095255.png これは、先ほども申し上げましたが、江戸城外堀の現状です。(お茶ノ水駅付近)台地を切り割って水堀にした部分ですが、実はこれ、一回の工事で水堀ができたわけではありません。最初の工事では水堀にできませんでした。ですから、もう一回掘って水堀にしています。2回ともやらされたのは気の毒に伊達家です。仙台の伊達氏ですね。よく北側の防御線をもっと北に出すためにやられたと言うのですけど、仮想敵は伊達だったので、その仮想敵に掘らせたわけです。
2)小諸城・水戸城
img20241019152348387894.png 小諸城小諸周辺地形図です。図中Aの部分が北国街道と城下町です。Bが大手門のある場所でCが本丸のある場所です。Aが一番高くてCが一番低い場所になります。かつては本丸直下に、旧河道と書いてありますが、千曲川が流れていまして、舟運の便の良い場所でした。D、Eも城址ですから、川の側にお城が並んでいるっていうのは、これは多分舟運を考えていたものだと思います。 img20241019152401408840.png 小諸城縄張図です。先に述べたように穴城と言われています。三の門は、紫の矢印の一番下側のところの下にあります。懐古園という額がかかっています。城内で一番低い場所にあります。何のためにそうしたかというと、敵をいつの間にか低い場所に誘導して周りから攻撃するという、そういう意図があって、一番低い場所に門が築かれたのです。防御のためには良かったのですが、江戸時代、戌の満水(いぬのまんすい)と言われた、信濃から北関東にかけて大変な広域に洪水が起きて、その時の発生した土石流によって、石垣が洗掘され大破しました。その土石流の流向は大体わかっています。このように流れて来ています。紫色のラインです。財政難だったものだから、30年か40年後ぐらい、かなり時間が経ってから修理されたのですが、城内の外の石垣が野面積みであるのに対しまして、当時最新の石積みの切り込みハギ布目積みになっています。マチュピチュにあるように、ぴったりくっつく隙間のない積み方です。 img20241019152842567437.png 水戸城これは皆さんと行った水戸城です。北の那珂川と南の千波湖に挟まれた要害の良い台地にあったのですけど、城下町は当然北側と南側がつながらず、台地続きの西側か低地の東側のどちらかに造るしかなかったのです。当然その高い低いが町の名前にもくっついているわけなのですけど、近年には千波湖が半分ぐらい埋め立てられて、車で行けば、北側の台地、南側の台地でも家を建てられて通えるようになったので、どんどん市街地が広がっています。江戸時代から明治の初めぐらいまでは自然条件によって城下町が制限されていたのですが、今ではそういう自然条件を軽々クリアするようになってしまいました。細長い台地ですと櫛形に本丸、二の丸、三の丸が繋がります。本丸、実はあんまり面積がなく、二の丸が本丸化していきます。3階櫓と言いながら、5階分の実質天守みたいな櫓があったので、二の丸に一番高い櫓があったのです。

3)熊本城
img20241019163957566394.png これは、熊本城です。この右側の写真が、地震前の大天守と宇土櫓です。残念ながら今の状態ではありません。左側が現在の熊本市街地になります。大変広大な敷地を持っています。坪井川の南側に花畑屋敷跡というのがひとつあります。天守があって、東竹の丸があって、坪井川があって、花畑屋敷がある順番です。花畑屋敷、今、市役所がありますが、これは結局、昔は細川家の屋敷であったものだから、広大な土地があって、そこに官庁とかが建てられるようになっているということです。 img20241019164005814206.png これは復元縄張図です。アンダーラインがついているのが現存建物で重要文化財だったのですが、このうち東側の十八間櫓が落ちています。重文からの指定解除になる可能性がかなりあります。 img20241019164021986488.png これは熊本城周辺の標高図と城下町です。熊本城自体は、Aso-4火砕流からなる火砕流台地です。この京町台地南端に立地しています。白川ですが、阿蘇から大量の土砂とかほとんど火山灰ですが、火山灰を運んできて緩扇状地性の白川中流低地を形成しました。井芹川は運搬土砂が白川と比較にならないほど少ないため、埋残しの低湿地となっていたため、近年まで市街化しませんでした。今は、どんどん市街地になっています。当然、洪水には弱い場所です。標高を見ていただくだけでも分かるかと思います。あと、熊本城の本丸の部分ですが、かなり高いカラーで着色されているのが分かるかと思います。これには訳があります。 img20241019164032379948.png 熊本地震による被災状況図が左で、地質断面図が右です。地質断面図を見ていただきたいのですが、茶色い一番上の茶色部分です。全部盛土なのです。台地の上なのにさらに盛土を盛って、それで高い土地を作っているのです。ですから、台地の上なのにあまり地盤が良くないという、そういう土地になりました。歴史時代において何度も地震に襲われています。その度に大きな被害を受けているのですが、直近の地震は、平成28年(2016年)ですけど、その前は明治22年(1889年)でした。城を管理していた陸軍が報告書を残しています。それによれば、今回の地震によって被害を受けた箇所と70%ほども重複しています。それは仙台の青葉城でも同様なのですが、基礎があるわけでも耐震構造でもない石垣の限界なのです。石垣は何度でも崩れるところは崩れます。耐震構造にしない限りは絶対に無理です。基礎を作らないと。
4)玉縄城
img20241019164452624787.png 近代近世城郭の玉縄城です。玉縄城復元縄張図が左で、昭和三十年撮影空中写真が右です。神奈川県鎌倉市大船駅に近い場所にあるのですが、土塁のような形態をした丘陵地を生かした珍しい城郭です。後北条氏の拠点城郭で、後北条氏の軍団が駐屯していました。 img20241019164504074402.png これは、復元鳥瞰図です。左の上に「宿」と書いてあって、これが最初の頃の城下だったらしいです。その後「七曲り」と「曲輪の杉林」が城下になって、最後に「相模陣」あたりができたらしいです。地層・地形も鎌倉とほぼ同じものです。ですから鎌倉も谷戸ごとに集落がありますけど、ここでもミニ鎌倉のような様相を呈していたということです。
5)常陸のお城
img20241019164820646089.png 小幡城惣構(そうがまえ)がどういうふうに起きてきたかという話なのですが、これは小幡城という茨城の城です。お城から離れているのですけど、古宿っていう名前が付いているから、これは多分城下集落なのですが、それを守るための土塁が少しですけど残っています。 img20241019164832230658.png 小田城惣構を有する城郭ではかなり古い時期に築かれた方に属します。真ん中に本丸があって、ほぼ一丁です。一丁四方というのは109メートル四方なのですけれど、それから徐々に城壁が拡大されていったことがわかります。 img20241019164845317422.png 藤沢城小田氏なのですが、実は本城である小田城を佐竹氏によって叩き出されます。その後、そこから東側4キロのところに藤沢ってところがあるのですが、そこに本城を移します。ところが、そこでも惣構を造っています。洪積台地に土塁と空堀を回して惣構を造っています。後北条氏の築いた小田原城が惣構の始めであるように思われていますが、関東ではそれより前に惣構を有する城郭が出現しておりました。
6)安芸郡山城・松山城
img20241019170101456173.png 安芸郡山城これは、赤色立体図です。安芸吉田の国人領主から中国地方の覇者となった毛利元就の居城です。最初は右下の郡山本城だけの城でしたが、最終的には全山城郭化されました。元就は山上の本丸に住んでいたことが文書から明らかになっています。どのような文書かというと、「息子が全然、本丸に最近上がってこない」と愚痴をこぼしています。愚痴をこぼしている文書が残っていたので、元就は一番高いところにいたということがわかりました。 img20241019170112139357.png 松山城これも、赤色立体図です。平山城として扱われている松山城なのですが、山上の本丸と山麓の三の丸は、全然違う地形に立地していることがわかるかと思います。これらを平山城という同一のカテゴリーに収めるのはちょっと無理があります。ですから、山城・平山城は、地形を表しているようで、実は全然表してないのです。矢印は今回発生した土石流の流路です。管理用道路の腹付け盛土の崩落が引き金になっています。
それでは、今日はもう時間がないので、ここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。
 
 
4-2  質疑:「城と城下町に関して」
会員からの質問について、「城郭と城下町」の講師の坂井尚登さんに回答して頂きました。
 
Q質問①:武士以外の住民を攻撃しないルールなどは無かったのでは?
「城を落とした後は、自分の領地の住民になるから」は諸外国も同じではないでしょうか?
 
A回答:日本では中世まで戦闘員(武士)と非戦闘員が峻別されていました(「武は家の芸」という考え方)。源平合戦の終わりからこの原則が怪しくなります(源義経が壇ノ浦の戦いの時に非戦闘員である水夫(かこ)を狙い撃ちする)。南北朝から室町時代にかけて悪党(あくとう)、足軽など武士身分とは言いがたい者が戦闘で活躍するようになり、戦闘員と非戦闘員の境界が曖昧になります。彼らは無報酬もしくは低報酬しか与えられない存在である上、中世の軍隊の兵站は極めて貧弱であるため、戦場とその周辺で、人や物、食料を略奪する「乱取り」が彼らの生きる手段となります。これを取り締まるためには、主君の給与で生活できる専業兵士の育成(兵農分離)と厳しい軍律が必要になりますが、織田信長や豊臣秀吉の出現以前には大変難しい話でした。武器を持つ者が持たない者に対してどのように振る舞うのか、現代でも問われ続けている問題です。
 
 
Q質問②:戦国時代がもう少し続いていたら、城と城下町の構成が変わったのでしょうか(惣構の発達)?
 
A回答:その可能性はありますが、惣構の構築には大規模な土木工事が必要であり、それを作るためには、大変な財力と権力が必要となります。惣構が一般化することは難しいかもしれません。
 
 
Q質問③:お殿様は城下町に住んでいたのでしようか? 天守閣、城内に住んでいたのでしようか?
 
A回答:中世は城下町がほとんどなく家臣も自領に住んでいました。日を決めて寺社の門前などで市が立ちましたが、常設店舗はありませんでした。戦国大名が現れると居館周辺に家臣が集住するようになり城下町が形成されます。この時点では、お殿様は城下町に住んでいました(今川氏、武田氏)。戦いが激化すると館は城郭化し、「城内に住む」状態になります。毛利元就のように高い山城に住む人もいました。織田信長は安土城天守に常住していました。平和な江戸時代になると殿様は狭い本丸を飛び出し、より広い二の丸、三の丸や城外に住むようになります。仙台の伊達氏は二の丸と呼称していますが実質は城外に屋敷を構え、熊本の細川氏も城外の花畑屋敷に住んでいます。
 
 
Q質問④: 総構えの中にいることのできた平民はどのようにして選ばれていたのでしょうか?
 
A回答:基本的には、もともと城下町に住んでいる人達です。籠城時には、これに各地から動員された地方領主やその家来、お付きの平民が加わり人口は膨れ上がりました。これらの人々が消費する食料は惣構内では自給できず、開戦前に蓄えた備蓄に頼るしかありませんでした。また、飲料水や排泄物の問題も容易には解決できませんでした。
 
 
Q質問⑤:空壕の防御効果についてご教示ください。
 
A回答:空壕(空堀)と水堀についてですが、近世城郭は水堀、中世城郭は空堀という発達史論的な相違ではなく立地の問題です。平地に築城すれば水掘となり、山や丘陵に築けば空堀となる、ある意味必然です。陸軍は比高1.5mの段差を「崖」として地形図に表示しましたが、比高1.5mは完全装備(30kg)の歩兵が乗り越えるのが困難な段差であり、鎧兜に身を固めた者にとっても同様でしょう。水堀は船を使えば容易に超えられるため、江戸時代の軍学書は空堀の防御力を称揚しています。
 
 
Q質問⑥: 平城、平山城、山城という分類が一般的ですが、この分類はどの程度有効でしょうか?
 
A回答:一見、地形によって分類されているように思える平城、平山城、山城についてですが、平城は低地、山城が山地に立地するのは大体理解できます。しかし、平山城というのがくせ者で、その立地のほとんどが平城との境界があいまいな段丘、山城との境界があやふやな丘陵にあります。松山城のように山城(山上の本丸)+山腹斜面に造成された曲輪(二の丸)+平城(山麓低地の三の丸)という組み合わせのものもここに分類されています。どうも地形による分類とは言いがたいものです。よく時系列的に山城→平山城→平城と移動したとも言われますが、平和な時代の政庁として必要な面積を求めた結果です。
 
 
Q質問⑦: 松山城の土砂崩れについて城郭における崩落事例、後世の施工との関係、その危険性などについて実例があればご教示ください。また、熊本城の石垣の地震被害も明治期の陸軍による施工部分に被害が大きいとのことですが。
 
A回答:松山城の災害については、現地に行かなくてもテレビの映像を見ればメカニズムが分かります。腹付け盛土(原地形の斜面にそのままに盛った盛土)の崩落とそれによる土石流の発生です。国指定史跡である松山城は、本丸外周の管理用道路を作る際に石垣の保全が優先されるため、腹付け盛土で道路幅を確保するしかありませんでした。最初から滑り面があるため、十分に施工及び管理に注意しないと容易に崩落します。一方、熊本城の地震時に崩落した石垣ですが、明治時代の地震で被害を受けた場所と7割以上重複しています。この点は、施工云々というよりも、耐震構造でも基礎があるわけでもない石垣という構築物の限界です。崩れる場所は何度でも崩れる、これは仙台の青葉城でも同様です。
 
 
4-3  体験談:「城 探訪」
会員お二人から体験談として「城探訪」をお話しして頂きました。
 
① 伊豆長浜城(静岡県)
img20241019170915581456.png 伊豆長浜城は水軍の城です。今年の5月に行ってきました。伊豆半島の駿河トラフに面しており、この城の際まで水深が深く水軍に向いた城です。後北条家の開祖北条早雲がこの地方を支配する時に、本城である韮山城を守るために造った城でした。早雲が、三浦半島油壺で滅亡させた三浦氏の残党も北条方に下って、ここを基地としていました。実際この城が機能したのは、3代目北条氏政の時代で、それまで友好関係にあった武田氏との関係が悪化し、武田氏が狩野川河口の三枚橋城を造って北条側を攻めようとしたときに、それを守るためにこの城を強化しました。 img20241019170925982136.png 城は完全に海に突き出している小さな半島であり、背後から山が続いていたのですが、今は県道が切り通しで横切っています。ここへ行くには、伊豆長岡駅から路線バスでシーパラダイスまで行き、そこから1キロぐらい、歩かなければなりません。
長浜城には、観光用の階段があり、これを登っていくと、まず第四曲輪と堀切があって、さらに登ると、第三曲輪から第ニ曲輪へ、そして第一曲輪へ行けます。ここがいわゆる本丸みたいなところで、当時の本丸というのは天守閣などなく、あくまで城の中心だったわけです。
img20241019170933941595.png この城は、登っていくと非常に景色のいいところがあります。正面に富士山が、そして真下に駿河湾が良く見えます。またここから海に向かって何段かの曲輪、というかステージがあり、おそらく当時この下の船が接岸するところまで続いていたのだろうと思われます。 img20241019170942696673.png またここには、安宅船(あたけふね)という、当時の軍用船の残骸跡があるのですが、残念ながら今回は見に行けませんでした。安宅船は、室町時代の後期頃から、江戸時代にかけ造られた軍船で、特に村上水軍が使っていました。信長の石山本願寺攻めで、毛利側の村上水軍が使った軍船です。写真は四国今治市大島にある村上水軍博物館で撮ったものです。西洋のガリオン船のように、人が漕ぎ、もちろん帆も揚げていました。数十人の漕ぎ手で百数十人の戦士が乗船できた、当時の戦艦です。この船の残骸が、長年朽ち果てて、ほぼ土台だけ残りました。それを後からわかり易いように加工しています。多分ここに看板があり、この船のいろんな説明が載っていると思います。

東京から近く、三島から伊豆箱根鉄道に乗って1時間もかからずに伊豆長岡に着きます。修善寺の手前です。そこからバスで行けば簡単に日帰りで十分行けますから、ぜひ行かれたら良いと思います。
 
② 小机城(神奈川県)
img20241019171551745321.png これはGOOGLEマップの写真です。画面の右の方が新横浜駅です。それから小机駅、真ん中を流れる川が鶴見川で蛇行しています。私が以前勤めた学校(新羽高校)です。この高校は、丘陵地の最高点にあり、周りには水田があり住宅地です。川を挟んで、対岸は低地です。その先に小机城があります。小机城の西方は港北インターチェンジで高速道路が走っています。有名なサッカースタジアムの日産スタジアムがあります。それからこの鶴見川を挟んで大きな広場もあり、運動場になっています。これは鶴見川が洪水で氾濫時に水を流し込む貯水池になっています。そういう環境のところなので、勤務先が決まった時に、小机城の歴史地理を調べてみようと思ったきっかけです。 img20241019171600309777.png 小机城は、大きく2つの城郭にから成り立っています。2つの中心をなす郭の周囲には、深く広い空堀と土塁がめぐらされています。城跡基本部分は東西の2つの郭と、その中間に南北に延びる帯郭によって構成されています。西郭は東西 40m、南北 40mほどの方形をなし、東北方が入角となっており、周囲には土塁が残っています。西郭の遺構は、その規模・構成からみて、後北条時代のものと考えられています。この西郭は、通称本丸ともいわれていますが、地元では東郭を本丸と称する人もあり、いずれが正しいか確証がありません。東郭は、東西 45m、南北 70mほどの長楕円形をなし、以前は周囲に高さ 1.6m、幅5mの土塁をめぐらせていたようにみえますが、今では削り取られ、西側の一部にその痕跡を残しているに過ぎません。東北側に入角をもち、全体的に方形をなす西郭が中世後期の形態と認められるのに対し、この東郭は曲線部が多く、比較的古体の様相をとどめており、郭成立の年代に差があるものと考えられています。 img20241019171608243678.png この小机城にまつわる戦いは、戦国時代の先駆けになったと言われている場所で、関東管領の中で、長男の相続問題において、息子の長尾景春が反乱を起こしました。それを抑えるように出てきたのが江戸城主であった太田道灌です。扇谷上杉氏の執事であった太田道灌と対立してここで戦が起きたのが、1478年のことで、どうなったかというと、この写真は、さっきのものと上下逆さまなのですけれども、ここが新横浜で、ここが小机城で上杉方というのが鶴見川を挟んで、長尾景春方が対立をした戦をしたということで、その間に鶴見川があり、貯水池があって、サッカー場がある、そんな位置関係です。そういう意味では、鶴見川を挟んで対立をしたわけです。2か月間の戦が終わり、太田道灌側の扇谷上杉定正派が勝ちました。その結果、功績を上げたことで、太田道灌が高名になって人気が高くなったことで、殿様から疑いをかけられて太田道灌は殺されてしまいます。それ以降、後北条氏の城になったという関係があります。私が勤めていた学校の周辺の太田道灌が絡んでいた亀甲山城というところが勝ったのだなと思いながら、写真を撮りました。 img20241019171615809585.png 横浜市3000分の1の地形図(昭和16年発行)を見ると、鶴見川近くの小机城と亀之甲山城の中間の場所には、古い湖面がありました。この赤い四角で囲まれたところは、「何々土浮」と書いてあります。「土浮」という用語は死語みたいになっているのですけれど、底なし沼みたいな状態の土地だったという意味です。「大沼」と呼ばれている地名もありますので、この辺一帯は兵隊(つわもの)が、どぶどぶにはまって入り込めないようなところで、つまり天然の要害になっているわけです。小机城の北側の方に鶴見川がありますので、ここも要害でした。どのような戦をしたかっていう記録はないのですけれども、このような地理的条件のところで亀之甲城が勝ったということです。西の方を見ていきますと、新横浜のあたりは非常に湿地帯で地盤が非常に悪いところだったということがわかります。約12〜13万年前は浅い海底で下末吉層が堆積しました。その後、寒冷化が進んだために海面が低下し谷が深く入り込んで、下末吉層は陸地になり下末吉台地ができました。その谷に現在の鶴見川が流れています。城がある台地は下末吉台地で地盤がいいわけで、城の要害はよく川が氾濫をしていた場所で地盤が悪かった場所です。小机城の要害の立地条件というのでは、こういうふうに、鶴見川の氾濫原の「土腐」「沼」と呼ばれているようなところがあったというふうに考えられます。
後北条氏時代の歴史も調べたのですけれども、これは省略します。ずっと新しくなりまして、関東大震災の時には泥水が噴き出したり、地面に亀裂が入ったりする液状化現象が小机城の辺りで起こりました。小机城の東方の地盤が悪い所では地震によって地盤災害が発生しました。戦後には鶴見川は大洪水が起き遊水地が運用を開始しました。2004年の台風の時は浸水しました。それから、2011年3月11日の東日本大震災の時に住宅地には関東大震災のときと同じように液状化現象が起きて、地盤被害があったました。最後に、この周辺には水に関係する災害地名が多いので面白いなと思い御紹介しました。
 

地理の会巡検23区シリーズ第18回「渋谷区」

 

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渋谷区は、これまで地理的に様々な形で取り上げられてきました。地理の会でも過去に一度、代官山の巡検を開催しました。そこで今回は、地形観察の宝庫といわれながらあまり取り上げられてこなかった概ね水道道路付近から小田急線の北側までの、知られざる渋谷区北部を歩きました。そして、住宅街や商店街に残る坂、土地の起伏、暗渠など地域の現勢を手掛かりに、台地と川の作る都市地形とその原初的形態、都心に近いまちの地域特性とその変貌を参加者とともに読み解いていく学びの一歩としました。
 
1.日時:2024年4月21日(土)13:00-16:00 
  
2.参加者:15名 
  
3.巡検行程: 
約7.5kmの歩行・鉄道移動距離、約3時間の移動時間、約18.6mの高低差 
 
① スタート:京王線初台駅

  • 参加者紹介の後、今回の巡検の行程について案内者より説明がありました。

 
② 河骨川(春の小川)最上流部

  • 歩いた場所は、住宅地・舗装道路化され、小川が流れていたところだったとは想像できませんでした。
  • 河骨川は渋谷川の支流である宇田川に合流します。戦後は生活排水による悪臭が問題になり、1964年の東京オリンピックを機に暗渠化されました。名前の由来はコウホネ(クリックするとリンクします。)が咲いていた場所であることからで、唱歌『春の小川』のモデルとされ、作詞の高野辰之は川がある周辺に住み、農村の小川のようなのどかな風景が存在していました。

 
③ 玉川上水暗渠・京王線軌道跡

  • 木々が植えられて、道幅も広い遊歩道で、都会のオアシス的な場所でした。
  • 玉川上水旧水路緑道(クリックするとリンク)は、延長約6キロメートルの都市公園になっています。
  • 京王線は、車が増えるにつれて新宿西口の京王新宿駅から文化服装学院までの甲州街道上の併用軌道が問題になり、新宿~初台間の地下鉄化と新宿駅の地下化工事が開始され1963年(昭和38年)に完成させました。その後1978年、さらに新宿~笹塚間は複々線となり、初台、幡ヶ谷を通る各駅停車線は地下化された京王新線と呼ばれ、今日に至っています。

 
④ 甲州街道

  • 首都高速道路と甲州街道を横断しました。
  • 幡ヶ谷台地には、玉川上水と並行して、江戸幕府によって整備された五街道のひとつで、甲斐国へつながる甲州街道が通っています。

 
⑤ 旗洗池跡

  • 道路とビルの間のスペースに案内板と石碑がありました。
  • ここには、神田川笹塚支流に注ぐ自然の湧水の池があったといいます。後三年の役の後、源義家が上洛するときに、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があり、また幡ヶ谷という地名の由来になったとのことです。

 
⑥東京オペラシティ(旧・東京工業試験所)

  • この辺りの道を歩いていると、「東京オペラシティビル」や新宿副都心の高層建築群が必ず目に入ってくる風景でした。
  • オペラシティは、新国立劇場および、民間の超高層ビル「東京オペラシティビル」(東京オペラシティタワー)で構成されている複合文化施設です。当地にはもともと、旧通産省東京工業試験所(新国立劇場部分)が存在しました。

 
⑦幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)

  • 都会の中では、広い敷地を有するお寺でした。
  • 創建は1561年で、荘厳寺(しょうごんじ)は、一般には幡ヶ谷の不動様、幡ヶ谷不動尊などで知られています。
  • また、みちしるべ(クリックするとリンクします。)として常夜燈が置かれています。

 
⑧不動通り商店街

  • 幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)の前の道路は「不動通り」と呼ばれ、古くから不動尊への参道としてにぎわい、現在は商店街 「不動通り商店街」となっています。

 
⑨神田川笹塚支流暗渠遊歩道

  • 緩やかな坂を下ると、家の間を抜けていく遊歩道に遭遇しました。
  • 笹塚・幡ヶ谷をへて西新宿へと流れていた「神田川笹塚支流(和泉川とも呼ばれる)」の暗渠の遊歩道です。

 
⑩旧本町小学校と地蔵橋(本町学園第2グラウンドの複合施設:建設中)

  • 遊歩道を歩いて、学校のグラウンドの門前に橋の跡地を見つけました。
  • 旧本町小学校の脇には地蔵橋という橋が架かっていたため、付近では「地蔵川」と呼ばれていたという伝承があります。しかし渋谷区の歴史資料には一切その名前は記述されていません。

 
⑪本村隧道

  • 遊歩道を離れて南に向かって、広めの道路の下部にトンネルを見つけました。
  • 玉川上水新水路の1892年(明治25年)12月着工後、本村隧道も1893年(明治26年)4月14日に着工し、同年7月20日に竣工しました。その外観はパルテノン神殿を彷彿とさせる荘厳な造りをしており、全幅は5m、有効高は3.4mです。

 
⑫水道道路

  • 広めの道路は、かつての水の通り道として真っ直ぐに伸びた整備されている道路でした。和泉給水所から淀橋浄水場を結んでいた玉川上水新水路の跡を埋め立ててつくられたため、水道道路と呼ばれています。

 
⑬都営本町一丁目アパート

  • 水道道路が用水路の役割を終えてからは、住宅不足解消のため空地に住宅建設が行われました。戸建ての公営住宅であったものも、昭和30年代以降に鉄筋の集合住宅に近代化され、この都営アパートもそのうちの一つです。1973年建設の48戸。堤防状の水道道路の道路脇の幅の狭い土地を最大限利用して細長く建てられています。

 
⑭本町隧道(本町ずい道公園)・六号通公園

  • 本町ずい道公園・六号通公園で休憩しました。
  • もともと3か所あった隧道のうち1か所は廃止され、2ヵ所が残っていましたが、道路拡幅により本町隧道も1975年(昭和50年)に新トンネルとなったため、当時の姿で現存するのは本村隧道のみです。

 
⑮六号通り商店街

  • 京王線幡ヶ谷駅に向かう、「六号通り商店街」を通りました。
  • 玉川上水新水路には、この橋を含め16の橋が架けられており、この橋が新宿方面から数えて6番目の橋であったことから「六号橋」と命名され、六号橋がある道路を「六号(橋)通り」と呼ぶようになりました。

 
⑯  京王線乗車

  • 幡ヶ谷駅で京王線に乗車して、笹塚駅まで移動しました。

 
⑰玉川上水跡・遊歩道・笹塚橋・旧三田用水取水口

  • 笹塚駅南口を降りたったところから、暗渠部が続いていた玉川上水が一部、開渠が保存されていました。
  • 再び暗渠になる地点に旧三田用水の取水口があります。三田用水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。用水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。

 
⑱消防学校前・玉川上水跡・遊歩道・常盤橋

  • 五條橋から消防学校前(常盤橋)まで、玉川上水跡地を歩きました。
  • 笹塚橋から東に住宅地を常磐橋まで歩くと笹塚橋では南に向かっていた遊歩道が常磐橋では北に向かっており玉川上水がU字に屈曲していることが実感されました。
  • 武蔵野台地末端の淀橋台の端には、南西から北東に続く浅い谷筋があり、神田川支流にはいくつもの支谷が刻まれています。この付近には「牛窪」と名付けられた谷から、小川が流れ出ていました。淀橋台のもっとも高いところに流れていた玉川上水は、その谷の部分を避けるようにして、Uの字に蛇行しています。

 
⑲代々木大山公園

  • 玉川上水跡地を遊歩道から南へ、緩やかな坂を下り上りして、代々木大山公園で休息しました。
  • 渋谷区立公園のなかで一番大きい公園で、以前は防空小緑地として整備されました。

 
⑳宇田川の谷

  • 緩やかな長い下りの坂を歩きました。
  • かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、そこから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれています。

 
㉑大山町・西原3丁目邸宅街

  • 坂に沿って、新旧の敷地の広い家並みが続いていました。
  • 東京都渋谷区・旧代々幡町の西部に位置し、世田谷区(北沢)との区境に当たります。町域の北部から東部は西原、南東部から南部は小田急線の線路を境界として上原に接し、高級住宅地区の一つ、「代々木上原」地区に属する町域となっています。

 
㉒ 西原児童遊園

  • 駅近くの小規模集合住宅などに囲まれ曲がりくねった細い暗渠を歩いて行くと、小さな児童遊園地に行きつきました。
  • 尾根道である甲州街道に沿って敷設された京王線と隧道工事を避けて谷筋に沿って敷設された小田急線の対比が分かります。
  • この近辺では、駅南西側の谷からの支流が合流していました。代々木上原駅前から代々木八幡駅近辺にかけての宇田川流域一帯は、かつては「底ぬけ田圃」と呼ばれる低湿地帯で、踏み入った鳥追いが泥に呑まれ溺れ死んだとの伝承も残っているそうです。

 
㉓代々木上原駅前急傾斜地

  • 特に名前の付いた由緒ある坂ではなさそうですが、宇田川の侵食で造られた谷の急坂でした。急坂の頂上からは渋谷駅周辺の高層建築群が望めました。
  • この坂を駆け上るTV(テレビ朝日)映像がありました。全力坂 No.3288 高橋媛 西原三丁目の坂 - YouTube

 
㉔ゴール:代々木上原駅

  • 急坂を下り、小田急小田原線の代々木上原駅に到着しました。

 
 4. 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて

① 地理院の現在地図

約7.5kmの移動距離(歩行・鉄道)、約3時間の移動時間、約18.6mの高低差

② 今昔地図(1896年〜1909年・明治29年〜明治42年)


③ 地形図

(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます。」「地図中央でコメントを確認できます。」さらにクリックすると「地図を拡大できます。」)
  img_9365.png 地理院の現在地図約7.5kmの歩行・鉄道移動距離、約3時間の移動時間、約18.6mの高低差 img_9366.png 今昔地図
(1896年〜1909年
・明治29年〜明治42年)
⑨〜⑩の神田川笹塚支流を確認できます、
③と⑰〜⑱の玉川上水を確認できます、
⑪〜⑭の新上水と淀橋浄水場を確認できます、
㉒の渋谷川水系の宇田川を確認できます、
img_9368.png 地形図神田川笹塚支流と渋谷川水系(河骨川と宇田川)は谷地を流れ、
玉川上水・新上水は台地を流れていたことを確認できます、
尾根道である甲州街道に沿って敷設された京王線と
隧道工事を避けて谷筋に沿って敷設された小田急線の対比が分かります、

 
5.  巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生です。)
  img_9800.jpg ① スタート:京王線初台駅参加者紹介の後、今回の巡検の行程について案内者より説明がありました。 img_9802.jpg ② 河骨川(春の小川)最上流部歩いた場所は、住宅地・舗装道路化され、小川が流れていたところだったとは想像できませんでした。 img_9804.jpg ③ 玉川上水暗渠・京王線軌道跡木々が植えられて、道幅も広い遊歩道で、都会のオアシス的な場所でした。 img_9805.jpg ③ 玉川上水暗渠・京王線軌道跡京王線は、甲州街道上の併用軌道が問題になり、この間の地下鉄化を1963年(昭和38年)に完成させました。 img_9806.jpg ④ 甲州街道玉川上水旧水路緑道から首都高速道路と甲州街道を横断しました。 img_9807.jpg ⑤ 旗洗池跡道路とビルのスペースに案内板と石碑がありました。 img_9810.jpg ⑦幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)都会の中では、広い敷地を有するお寺でした。
境内から超高層ビル「東京オペラシティビル」を見ることできました。
img_9813.jpg ⑨神田川笹塚支流暗渠遊歩道緩やかな坂を下ると、家の間を抜けていく遊歩道に遭遇しました。 img_9815.jpg ⑩旧本町小学校と地蔵橋遊歩道を歩いて、学校のグラウンドの門前に橋の跡地を見つけました。 img_9816.jpg ⑪本村隧道、北側遊歩道を離れて南に向かって、広めの道路の下部にトンネルを見つけました。 img_9819.jpg ⑪本村隧道、南側遊歩道を離れて南に向かって、広めの道路の下部にトンネルを見つけました。 img_9820.jpg ⑫水道道路広めの道路は、真っ直ぐに伸びた整備されている道路でした。 img_9821.jpg ⑭本町隧道(本町ずい道公園)
・六号通公園
本町ずい道公園・六号通公園で休憩しました。
img_9822.jpg ⑮六号通り商店街京王線幡ヶ谷駅に向かう、「六号通り商店街」を通りました。 img_9823.jpg ⑯ 京王線乗車幡ヶ谷駅で京王線に乗車して、笹塚駅まで移動しました。 img_9825.jpg ⑰玉川上水跡・遊歩道・笹塚橋
・旧三田用水取水口
笹塚駅南口を降りたったところから、暗渠部が続いていた玉川上水が一部、開渠されていましました。
img_9830.jpg ⑱消防学校前・玉川上水跡
・遊歩道・常盤橋
笹塚橋から東に住宅地を常磐橋まで歩くと笹塚橋では南に向かっていた遊歩道が常磐橋では北に向かっており玉川上水がU字に屈曲していることが実感されました。
img_9832.jpg ⑲代々木大山公園玉川上水跡地を遊歩道から南へ、緩やかな坂を下り上りして、代々木大山公園で休息しました。 img_9834.jpg ⑳宇田川の谷緩やかな長い下りの坂を歩きました。 img_9835.jpg ㉑大山町・西原3丁目邸宅街坂に沿って、新旧の敷地の広い家並みが続いていました。 img_9837.jpg ㉒ 西原児童遊園駅近くの小規模集合住宅などに囲まれ曲がりくねった細い暗渠を歩いて行くと、小さな児童遊園地に行きつきました。 img_9838.jpg ㉓代々木上原駅前急傾斜地特に名前の付いた由緒ある坂ではなさそうですが、宇田川の侵食で造られた谷の急坂でした。 img_9840.jpg ㉓代々木上原駅前急傾斜地坂を登り切ったところで視界が開き、渋谷方面の高層ビルを展望しました。 img_9841.jpg ㉔ゴール:代々木上原駅急坂を下り、小田急小田原線の代々木上原駅に到着しました。

 

ジオ展2024出展

1. 日時:2024年4月19日(金)10:00〜17:00
2. 参加方法:展示ブース
3. 出展内容:(当日撮影した写真掲載予定)
1) 展示
①掛け紙から見る駅弁と地理
②地理の会の紹介と巡検地一覧
2) 販売
・会員執筆の書籍(5人・5種)を著者割引販売
 チラシ配付
・地理の会のチラシを制作し配付
4. 成果と所感
・地理の会として初めてブース出展し、多くの方に来場いただきました。会場内は、すれ違うのも難しいような盛況で、来場者数1,072名、ブース出展者数180に上りました(過去最大)。
・地理の会は、非営利団体として活動PRがベースですが、地図や地理への関心を通して、さまざまな来場者と情報交換ができたことは大きな成果でした。また、学生さんの訪問も多く、平均年齢の高い地理の会としては多くの気づきももらいました。

地理の会交流会

1.  日時:2024年3月16日(土)18:30〜21:00
2.  開催場所:地理系ブックカフェ空想地図クリックするとリンクします。)


3.  出席者:15名
4.  内容:
「♪春の 空想地図カフェで“地理なひととき“を!」
◆SessionⅠ 講演&お知らせ
 
(1)『ファミレスの店長がなぜ“地理系BookCafe”を始めたか』 
空想地図カフェ店主 

 
① 自己紹介、ファミレスで仕事一途な時代! 

  • 1970年7月に静岡県の御殿場市で生まれました。幼少期から高校まで静岡・沼津・浜松など、親が転勤族だったので、3〜4年に1回は引越しという生活をしていました。
  • 1990年初頭、大学が京都だったので、京都で4年間生活をして、1994年、ファミリーレストランのデニーズに新卒で入社いたしました。
  • 最初の赴任地が静岡県の伊東市の伊東港近くのデニーズに新入社員で配属され2年間働きました。
  • 静岡の店を移動して、店長という形で就任させていただきました。その後、愛知県の一宮、岐阜県の大垣、最後は大阪まで移動しました。

 
② 空想地図、世にでる!

  • 続いて、このお店を始めるきっかけというのは何だったのかということですが、X、以前のツイッターですが、ここでの「つぶやき」が最初のお店を始める一つのキーワードになっております。
  • 当時、我が家では愛知県の一宮市で生活をしていました。2017年は、私が東京に出張する機会が多く、その帰りに静岡の実家に帰った際に、たまたま押し入れで、私物を整理していたのですけれども、その際に学生時代に書いた巨大な地図、空想地に全く架空の地図を描いたものを見つけ出して、そのまま愛知県の一宮の自宅に持ち帰りました。
  • その地図を、まず妻と子供に見せました。最初は、妻は「何、この汚い地図は?」みたいな感じで言っていたのですけれども、それが「昔、僕が書いた架空の地図です。」ということで、妻も大変驚きまして、その際にこの分からないものを当時、妻の仕事の職場とか知り合いとかに話しても無関心でした。
  • 闇を感じるとか言われて、誰も相手にされませんでした。じゃあこの地図をどうやって人に広めようかということで、名古屋のメディアだとか、大阪の「探偵!ナイトスクープ」、そういう番組とかにもいろいろ出したのですけれども、全く相手にされませんでした。
  • それを見かねた長女がツイッターで2017年の11月にツイートしました。そのまま文面を読むと、「パピー(父)が小学生から大学生になるまで書き続けていた、手書きの架空の地図の資料を結婚してから初めて見せてもらったことに感動して、どうにかしてこの地味な才能を広めたいと色々な場面に、マミー(母)が投稿しているらしいが空振りみたいなので、娘の私が拡散しておくな。」とツイートを書きました。
  • 当時、娘なのですけれども、ハンドルネームでつぶやいていたのですけれども、このフォロワーさんが当時1万人ぐらいいる形だったので、瞬く間にツイートが「ばずり」まして、結果1万件のリポストリツイート437件の引用リツイートで7.5万件の「いいね」がつきました。
  • これで結構メディアだとか、ネットのニュースとか、いろいろな方から取材の持ち込みがありました。そのうちの一つがこういう感じで「ネトラン」とか「プレジール」とか「YAHOOニュース」だとか、「LINEニュース」とかに載りました。その中でメディアから連絡があったのは、当時の日本テレビの「スッキリ」という番組とフジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」でした。先に「奇跡体験!アンビリバボー」の話が進んでしまったために日本テレビの方はポシャリました。2018年の6月14日、「奇跡体験!アンビリバボー」の番組(クリックするとリンクします。)で取り上げられました。

 
③ 空想地図カフェ開店へ!

  • その後、中京エリアから大阪に転勤して2020年にコロナ禍に入ります。コロナ禍で、最初の頃は飲食店というか、大手ファミレスは、休業までいかなかったのですけれど、営業時間を短縮しまして、小さい飲食店とかは補助金で何とかなるのでしょうけれども、大手会社でその補助金だけではとても賄いきれないものがありました。
  • グループにコンビニがあっても、そんなところはお構いなしで、当社の希望退職募集がありました。そして、たまたまその2021年3月というのが、長女の大学の卒業と長男が高専高等専門学校で卒業のタイミングで、我々も当時ちょっと行き詰まっているところもあって、じゃあ何か新しいことを始めようかというところで会社を辞めまして、退職金で、このお店の開店資金の原資としました。
  • では、店が駒沢に決まるまでというお話なのですけれども、最初3月に会社をやめまして、その後、会社の用意したコンサルタント会社がありまして、そちらの方でいろいろ相談をさせていただきました。コンサルタント会社の人にもいろいろ「飲食店がこういうものだよ」みたいな形で飲食店とか営業へのやり方とか、いろいろ伝授させていただきました。8月に当時大阪に居たのですけれども、そのまま何のあてもなしに東京に来ています。
  • 子供たちは独立しているので、我々二人だけの生活だったので、全てを投げ捨て東京に引っ越してきました。そこからお店探しをスタートいたします。東京の23区全てまわりました。住まいは、引っ越してきたのは三鷹だったのですけれども、最初、京王線の町だとか、それからだんだん広げていき、東京の東エリアの葛飾区とかそのほぼ全部回って何10件も物件をいろいろ見させていただきながら、何ヶ所か欲しい物件がありました。いろいろ探していくうちに、駒沢のここの場所を当時のコンサルタントの方に紹介していただいていまして、この場所に店を申し込みさせていただきました。3月に物件の申し込をして、5月にツイッターの方でアカウントを作りました。
  • その後、7月から本格的な工事が始まりました。お店の名前、空想地図という名前にしたのは、最初「なんとかコーヒー」とかいろいろなことを考えたのですけれども、最終的に空想地図でやろうということで、決めさせていただきました。工事が終了して、2022年の9月に無事にオープン致しました。 プレスリリース(クリックするとリンクします。)
  • そのオープンの時に、たまたまTBSラジオさんの方から安住さんの日曜天国というラジオ番組があるのですけれども、こちらの生放送の中継がオープンの10日ぐらい前からありまして、お店の宣伝とかをしていただきました。

 
④ 何故、地理カフェを開店したか? 答えは、生い立ちに!

  • なんで地理カフェを始めたのかという話ですが、地図カフェでもよかったのですけれども、なぜ地理カフェにしたのか。これは単純に2022年の4月に、地理が高校で必修になったというニュースを聞きまして、ただそれを聞いて地理カフェになりました。もともと僕は地理という科目は選択してなかったので、高校の時も日本史か世界史で地理の選択肢はなかった記憶があるのですけれども、何で地理にして大丈夫かなっているところもあったのですけれども、それは後付けでいろいろな皆様、いろんなお客様からそういう関係の本をいただいたり、勉強させていただいたりしているので、どんどんそういう地理っぽくなってきたかなという感じですね。
  • その地理が好きになったきっかけということで、きっかけは当時1973年ぐらいですね。3歳ぐらいの時ですけれども、おもちゃ屋で地図パズルを見つけまして、これを母親にせがんで買ってもらう。これがきっかけで地図が好きになっていったのですね。
  • 当時、「ダイアブロック」とか、いわゆるレゴみたいな形で街を作ったりとか、ミニカーで遊んだりとか、そんなことをやりながら街の地図だらけだったりとか、そういうことでどんどんはまっていきました。小学校低学年時には絵日記なども地図ばっかり、絵を描かずに地図ばかり描いていましたが、その後、浜松の小学校へ転校がありまして、空想地図シリーズを始めたということになります。
  • 空想地図の話になるのですけれども、空想地図とは「何?」ということで、フィクションの地図でこの世にない街を紙に描いて楽しむことなのですけども、僕が描いた静浜市という地名は、静岡と浜松の合成地に入れて、小学校のときは農村などに高速道路のインターとか民家の地図とか、親が免許の更新時にもらってくる、交通教本みたいなのに、道路標識とかがいっぱい書いてあるのですけれども、ああいったものを見ながら道路地図を書いていたりとか、そんなことをしながら幼少期を過ごしまして、中学時代に勉強と称して机に向かって地図を書いたりとか、そんなことばかりしていました。
  • 今、こういう風に今、地図に関するいろいろな資料だとか、ちょっとこれは見にくいかもしれないのですけれども、いろいろなものを書いて楽しんできました。高校野球も好きだったのですけれども、このスコアが全く架空のスコアで、もともと高校野球って小学校2年生の時の自由研究をやりまして、その時に高校野球の歴史を調べまして、そこからいろいろ夏春すべて何県の高校、全て好きで覚えました。その流れで、空想地図の中にも高校野球があるのではないかということで、勝手に架空の空想地図の高校大会みたいなものを開催したりしていました。テレビ番組を勝手に空想でタイムテーブルを作ってみたりしていました。
  • 当時この静浜という架空の街の市民はどんな感じで生活しているのかなというところで、当時僕がそうですね。20歳ぐらいの前くらいに、こういうペアマックという町の娯楽を書いた地図がありまして、これを渋谷とか新宿とかになっていますけれども、これは静浜版ということで、これも架空で書きました。
  • そんなことで街にある、映画館とか未来都市の鳥瞰図的なものを書いたりしていました。その後、ずっと就職してからはこういう空想地図を書いていなかったのですけれども、このお店をやるにあたって、30年ぶりにリニューアル版というものを作りまして、今この店に貼ってあるのですけれども、よろしかったら見てください。本日は、ありがとうございました。

 
(2)『地理学を自主的に学んで見るもの・見えるもの』      
國學院大學地理研究会 (クリックするとリンクします。)            
(2)-1   Introduction 『國學院大學地理研究会について』 

 

① 國學院大學地理学研究会紹介

  • 國學院大學(クリックするとリンクします。)では、地理学科が無いのですけど、6学部13学科があります。もちろん、皆さん御存じだと思うのですけど、日本で2つだけ、神主、神職の要員を養成する学部があります。有名なところで文学部、特に史学科が有名だと思うのですけど、意外といろんな学部があります。最近できた私がいる観光まちづくり学部なのですけど、2年前にちょうど新設されまして、まだ2年生までしかいない学部になっています。私が1期生というタイミングでした。渋谷とたまプラーザにキャンパスがありまして、人間開発学部と観光まちづくり学部はたまプラーザキャンパスにあります。
  • 國學院大學地理学研究会の設立は2021年の12月というとことで、ちょうどここの「ブックカフェ空想地図」と同じぐらいであります。3年目のサークルになります。3年目のサークルなので、私が今3代目の会長です。創設者の先輩にお聞きしたところ、多くの大学で地理関連のサークルがあることを知って、自分も大学の地理研入ろうと思ったんですけど、國學院大學には地理研がないので作ってしまおうということで作られたそうです。
  • 最近、地理研ブームなところがあって、他の大学でもここ数年ですかね、新しく地理学研究会のサークルができているそうです。今、本大学で地理学が無いのに地理学研究会に入っていますが、史学科の学生が4割ぐらいで、観光まちづくり科の学生が3割ぐらいです。残りはいろんな学部の方が所属しています。1年生が一番多いのですが観光まちづくり科が2年生までしかいないので、今後増えていくのではないかなというところで、半々になってくるかなというふうに思っています。

 
② 地理学研究会の活動内容

  • では、ここから手元の資料「こくちり FACTBOOK2024」で説明致します。本大學の地理学研究会では、主に4つ大きな活動があります。1つ目が巡検で、いろんな地域に行って地域を学んでおります。あと合宿で年に2回、あとはメディア作成、そして会誌作成も行なっています。先程、他の大学でも地理研が結構できているというふうにお話しさせていただいたのですけれども、駒沢大に地理学科もありますので、駒沢・早稲田・法政大学の学生の皆さんといろいろ企画交流を行っています。特に夏休みにアンテナショップみたいな企画を行なっています。今、全国地理学系サークル連合会(X:旧ツイッター)があるらしいですね。私も詳しくは知らないのですけど、全国規模で地理研が続々とできているそうです。
  • 次のページです。ここ半年で行なった巡検について、6箇所について説明しています。先ほどもお話あったように、古地図を用いて巡検、また都市開発の観点から、汐留で都市プランナーの方に協力頂き、先進的なまちづくりを学んだり、結構、歴史と都市開発の対極な軸で活動しています。次の佐倉巡検ですけど、佐倉市については佐倉市の教育委員会の方に全面的に協力頂いて、勉強会を開いて巡検を行うということも行っています。また、佃巡検というところで先ほどご紹介させていただいた前々会長の卒業論文のテーマが佃を取り上げたものだったので、最後の卒業巡検というところで佃巡検をしていただきました。
  • 続きまして合宿なのですけれども、合宿は、夏休みとか春休みを利用して遠くに行こうということで、夏休みはしまなみ海道に行きました。顧問の先生が歴史地理学の先生でして、絵図などを用いて尾道で海岸線の変遷や街路網、主要寺について講義していただきました。また、大分は遊びモードというか、温泉に入りに行こうということで、先月に、大分にみんなで行きました。ほぼほぼ雨でした。なかなか過酷だったのですけれども、みんなで楽しめました。
  • ちょっと宣伝ですけど、ここの空想カフェで、ずっと置いていただいていたのですけども、いろんな巡検だとか勉強したこととかを10月の学園祭で売るために毎年本を出しています。学園祭で売れきれず、販売していますので、もし良かったらお願い致します。その他、パンフレットも用意していますので、懇親会で、色々とお話しできたらと思います。ご清聴ありがとうございました。

 
(2)-2    ミニ講演『佐倉牧から自然環境と文化を知ろう!』

 

① 近世の佐倉牧-概要

  • 北総にあった佐倉牧について紹介したいと思います。まず、牧というのは、自然地形を利用して牛馬を放牧して飼育する施設で、前近代社会における牧場と位置づけられています。江戸時代に幕府の軍馬を確保するために設けられた牧が現在の千葉県で3つありました。佐倉牧はそれのうちの1つです。
  • 佐倉牧は油田牧・矢作牧・取香牧・内野牧・柳沢牧・小間子牧・高野牧という7つの牧から構成されています。ここで放牧されている馬のことを野馬といいます。現在、野馬が見られる馬としては宮崎県の串間市の都井岬にいる岬馬がいます。
  • この放牧されていた野馬を管理していたのが牧士と呼ばれる人たちです。この佐倉牧では人の手を加えずに、放牧させる形で馬を生産していました。基本的にはほったらかしで繁殖も全部自然のままに任せるのですが、雪が降った時や日照続きの時は、馬が自力で食料とか水の調達することができないので、その馬の手助けを牧士が行ったりしています。ワラを与え、桶に水を入れて飲ませていました。雪の中に雪が積もると、その雪の下にあるワラとかを馬が掘って食べようとします。積雪量が多いと掘るのに体力を消耗してしまい倒れて餓死ということがあるため、人間が手助けする必要があるのです。
  • 牧で育った馬は年間約2頭が幕府の軍馬として取り立てられます。それ程いい馬でなかったら農民らに払い下げられたりしました。農民へ渡るのは毎年約100頭ぐらいですね。

 
② 近世の佐倉牧-管理組織

  • 牧の管理組織のトップに野馬奉行、その下に牧士、その下に牧付村があります。その野馬奉行の事務所が今の松戸市にあり、綿貫家がずっと世襲していました。
  • 牧士には有力な家の有力な豪農や有力の家から登用された者が多く、牧士に選ばれている期間は苗字帯刀と乗馬が可能で、武士のような扱いをされていました。牧付村は牧の近辺にある村で、維持や管理費の負担していました。
  • 徳川吉宗の時代に佐倉牧の管理組織が幕府と佐倉藩に分けられます。管理形態が1つの仕事を2つの部署に分割して競争させ効率を上げる事が狙いでした。そしてこの体制は幕末まで続きました。

 
③ 近世の佐倉牧-自然環境

  • 牧は下総台地上に存在していました。自然地形を利用して牧は運用されていました。利根川や江戸川などの河川から枝のように、谷に入れ込んで台地を侵食したところを谷津と呼びます。谷津は水田化されて水田の端には湧き水があるので、その湧き水を馬の水確保に使っていました。牧の周辺を土手で囲んで牧の内部に繋がる出入り口には木の柵が設けられて、人間と生活区域を別にしていました。
  • 牧を設置する上で、馬には3つの要素が必要になってきます。食料と水と山林です。食糧には黒ボク土と呼ばれる農業に適さない土地に自生する植物が必要になります。また牧にある山林は馬が睡眠や風雨をしのぎ、眠る時の居場所になります。水は先述した谷津の湧き水です。この地域が牧として使われたのも必然的だと言えます。

 
④ 近世の佐倉牧-野馬込

  • 牧には野馬込という施設があります。幕府に馬を送る馬を選定するところです。この野馬込の中は「 払込」、「捕込」、「溜込」の3つの場所に分かれています。
  • 繁殖のために野に返す馬を置いておく「払込」、集めた馬を置いておく「捕込」、払い下げの馬を置いておく「溜込」です。毎年7月から一番北にある油田牧から南に向けて2ヶ月程かけて馬を集めて選定していきます。馬を土手に追いやる作業は人も時間も必要なため2か月ぐらいかけて行なっていました。
  • 現在の香取市にある油田牧跡は令和元年に国指定の史跡として登録されました。香取市のホームページからパンフレットを閲覧することができます。写真の油田牧跡の大きさからは広大な牧で馬を集めることの大変さが窺えます。

 
⑤ 近世の佐倉牧-炭産業

  • 近世後期になると関東各地で薪炭の生産がされるようになります。これは人口の増加に伴って江戸で炭の需要が増えたからなのです。炭は暖炉や生活用品だけではなく鉱山や茶道にも使われました。
  • 佐倉にも佐倉炭という銘柄の炭がありました。北総の地域を中心に、クヌギを蒸し焼きにして作った黒炭です。見た目は火持ちから良質の炭と評価され、佐倉牧周辺の木を伐採し製炭し江戸に出荷していました。現在は千葉で生産されておらず栃木県や福島県で生産されているようです。

 
⑥ 近代から現代へ-明治維新後の開発

  • 佐倉牧は幕政時代が終わると共に終焉を迎えます。その後牧の周辺および牧のあった場所では開発がどんどん行われていきます。
  • 明治政府の下総台地開墾事業により開墾会社(現在の三井物産)が設立され千葉県内の土地が開墾されました。牧の一部は御料牧場や馬匹や農業に関する研究所が置かれました。
  • 第2次世界大戦後の1945年以降、この地は復員者・海外引揚者、沖縄出身の人々の入植が行われました。1966年の閣議決定では成田国際空港が建設されることが決定するなど時代と共に変化していきました。
  • 谷津は水田として1900年代前半まで多く利用されていましたが、1960年代から利根川沿いや印旛沼周辺に大きな水田が作られていくと、手狭で排水も難しい谷津は徐々に利用されなくなり、休耕や耕作放棄が進みました。その後も1970年代以降の都市化や宅地造成によって谷津の埋め立てが始まり、宅地造成によって雨水が浸透しなくなり谷津の湧き水が減少します。
  • このような谷津の消滅を受け現在では各自治体や非営利組織が保全活動を行い谷津の自然湿地化や子供たちへの環境教育を行っています。

 
⑦ 近代から現代へ-現在の姿

  • 現在では成田空港や京成電鉄、総武線が走り、宅地造成が盛んに行われ、富里市のスイカや八街の落花生などの土地を生かした農業が行われています。

 
⑧ まとめ

  • 農業に向かない土地を牧や炭の生産に利用して、牧も谷津や山林を利用して馬の生産を行っていました。様々な方面から自然を利用して、経済活動や文化が回っていたと思います。
  • 現在でも牧のあった場所には成田空港が置かれたり、スイカなどの畑作農業が行われたりと、自然環境を利用して経済活動が行われていることを、千葉県出身のわたしですが改めて知る機会になりました。
  • 自分が何げなく歩いていたところも、過去から現在にどうやって繋がっているかを調べることで、何かただの土手かと思ったものも歴史的価値のある事を知ることができました。

 
(2)-3  ミニ講演『江戸切絵図で親しむ歴史地理学』

 

① 概要

  • 本日は、「江戸切絵図」をテーマにお話しさせていただきます。
  • まず初めに江戸切絵図の概要を色々と紹介させていただいて、その後、実際の江戸切絵図を例に具体的に見ていきます。最後は江戸切絵図を使った地理学研究会での活動の様子をご紹介したいと思います。
  • 早速ですが、江戸切絵図を見たことがある方、名前を聞いたことある方はどのくらいいらっしゃいますか。江戸切絵図というのはその字の通りで江戸時代に使われた、江戸の地域を何枚かに分割した地図・絵図になります。後で紹介するのですが、いろいろな種類があって表現も豊かで眺めるだけでも十分面白いです。また、東京周辺に暮らしている私たちからすれば、気軽に活用していけるものかなと思います。

 
② 切り絵図との出会い

  • さて、私は2年次の演習で、尾張屋版の切絵図を用いて麻布地域を調査せよという課題が与えられて、「東都麻布之絵図」という切絵図を扱いました。切絵図のコピーをもって絵図に示された範囲を1日中歩き回り、どういった寺社仏閣があるのか、江戸時代からどう街路網が変化したのかなど、現地写真を撮って後でまとめて発表という内容でした。そういったこともあり、私は切絵図を身近なものとして感じております。

 
③ 江戸切絵図とは?

  • 本日は『江戸切絵図で親しむ歴史地理学-豊かな表現が魅力の江戸切絵図を手に江戸を歩こう-』というテーマを設定しました。少しテーマについて説明します。
  • まず、“歴史地理学”って何?ということですが、詳しく触れると深入りしすぎますので、簡単に「歴史学は時間、地理学は空間、歴史地理学はその融合」という風に考えていただければよいかと思います。
  • 次に“豊かな表現”について。特に尾張屋版の切絵図は色彩の豊かさが特徴になっています。また、途中で紹介しますが、絵図の凡例がとても理解しやすいので、古地図初心者の方にもおすすめです。江戸切絵図の実用性は、実際に手にもって歩けばよく分かります。サイズ感もコンパクトなので、とても使いやすいです。また、切絵図を内容として扱った書籍というのは大変多く出ていますので、皆さんも意識せずとも切絵図に触れる機会がこれまであったのではないかと思います。
  • 最後は“江戸東京を歩こう”ということで、江戸の面影が大変多く残っている東京の町を、切絵図を通して見てみると新しい発見があるのではないかなと思います。東京散策や江戸へのタイムスリップの手掛かりにしていただければと考えています。

 
④ 切絵図の誕生

  • 切絵図は国会図書館のデジタルコレクション(クリックするとリンクします。)で、皆さんも自由に閲覧することができます。
  • 切絵図が登場する以前は、地番制度がなく住居表示の手段が無かったので、その人の記憶に頼ったり、見当のある地域まで行って辺りにいる人に尋ねたり、ちょっと不便な状況でした。特に屋敷には表札がなく、迷子になって江戸を彷徨う人たちも多くいたとか。
  • また、江戸は参勤交代で全国各地から人々が集まる場所でもありました。江戸に詳しくない人たちが無事に目的地にたどり着くために地図は欠かせない情報ツールとして使われていました。ただ当時の地図はとても広い範囲を描いた大きな地図だったので、持ち運びには不向きで、記載される情報も少なめでした。そこで江戸を分割して描き、紙面に余裕をもたせて、より詳細な情報を記載した切絵図が登場してきます。

 
⑤ 切絵図を使ってみよう

  • それでは、切絵図の機能について見ていこうと思います。ここでは、より理解しやすくするために、「切絵図」よりも広い範囲が一枚の紙面に描かれている「大絵図」を使い、比較しながら進めていきます。
  • 今回は、赤坂にある「氷川明神」から同じく赤坂の「青山備中守屋敷」まで移動して検証してみることにしましょう。
  • まず皆さん、どこが氷川明神でどこが青山備前守屋敷か大絵図から見つけられましたか?多分かなり分かりにくいと思います。一応、氷川明神には、社殿のイラストが描かれています。ただ、色付けとかここが神社だよっていうものを示す手掛かりがなく分かりづらいですよね。
  • 一方、青山備中守の中屋敷は、ただ「青山」と書かれているだけです。周辺にも青山と付く屋敷がいくつかありますから、こちらも分かりづらいですね。この情報不足をどうやって補っていこうかっていう工夫が切絵図の一番画期的な部分になっていきます。
  • 加えて、今回のケースでは大絵図の一部分しか必要としていませんよね。例えば、浅草の方も同じ1枚の絵図に描かれていますが、今回は完全に不要な部分となってしまっています。それでは切絵図を使うと、どういう風に変わるのか見ていこうと思います。
  • 今回使うのは尾張屋版江戸切絵図のうち「赤坂絵図」になります。赤坂の地域だけが示されています。さっきは苦労して探した氷川明神も青山備中守屋敷もすぐに見つけることができますね。氷川明神は敷地が黄色く塗られていますよね。さらにイラストもついて華やかになり、ひと目でここが神社だと分かります。そして青山備中守屋敷は屋敷の周辺がより詳しく表記されていますね。例えば、「青山」だけでなく、「青山備中守」とか、反対側は「青山下野守」とか。分かりやすくなりました。

 
⑥ 大絵図と切絵図の機能の比較

  • さて、大絵図と切絵図を比較して切絵図の便利さが分かったところで、改めて大絵図と切絵図の機能を確認しましょう。
  • 江戸大絵図の場合は、江戸を1枚の地図で表現するので、全体を俯瞰して見ることができます。区分にとらわれないという特徴がありますね。他にも方位や縮尺が統一されているので、目的地までの方角や距離感がすぐに分かります。それから江戸全体をカバーしているので、大火の際には被害の把握や復興に向けた都市計画にも役立てられたそうです。
  • 一方で、皆さんも大絵図をご覧になってよく分かったかと思いますが、屋敷や道筋などの細かい部分については情報の不足がありました。限られた紙面では、載せられる情報も限られていたのです。
  • 続いて、切絵図はコンパクトで持ち運びに便利という手軽さが大絵図と比べての大きな特徴になります。必要部分を選択して、そこを所有すれば用事が済むかもしれません。地域別に分割して表示されますので、紙面にゆとりが生まれ、その分情報がより具体的に表示されて見やすくなっています。そして、地域ごとに発行がされたので情報のアップデートがしやすいという利点もありました。当時は屋敷替えも多くあり、そうした地域の変化を柔軟に反映して新しく発行することができました。
  • 一方で、ほとんどの切絵図は方角や縮尺が統一されておらず、隣り合った切絵図どうしの縮尺が異なり、つながりが薄いということも少なくありませんでした。
  • このように、大絵図も切絵図もそれぞれ強みと弱みがあります。どちらかだけが使いやすいということはなく、用途に合わせて利用されていました。

 
⑦ 切絵図の凡例

  • 続いて、切絵図の凡例を紹介します。切絵図の凡例はとても分かりやすく、初心者にも易しいです。
  • 尾張屋版「江戸切絵図」では、屋敷の格を表す工夫として、上屋敷には家紋、中屋敷には黒四角、下屋敷には黒丸が付されています。また、寺社仏閣は赤色、道路は黄色、水辺は青色、畑などは緑色で塗られ、土地利用が一目で分かるようになっていました。ちなみに、先ほど見た氷川明神は黄色で塗られていましたが、こうした有名な寺社仏閣など強調したい名所などは目立つ黄色で塗られていました。
  • また、これは凡例と呼べるか分かりませんが、屋敷名や町人名の書き出しの部分がその敷地の入口の部分というルールがあります。これがなかなか面白い決まりで、現代の地図にはないですし、切絵図を手に歩いてみると変わらず今も同じ向きに入口があるケースもあります。

 
⑧ 切絵図の種類

  • さて、順番が前後したかもしれませんが、切絵図には4つの種類があります。登場した年代順に吉文字屋版、近吾堂版、尾張屋版、平野屋版となります。
  • 一番目は吉文字屋版ですが、他より少し早く宝暦5(1755)年に登場しました。しかし、時期尚早で需要があまりなかったのか、8巻の刊行に留まり、未完に終わってしまいました。
  • これを受け継いだのが近吾堂版で、37枚セットを完成させて広く使われました。
  • この近吾堂版の成功を見て尾張屋版がさらに畳み掛けます。近吾堂版をベースに改良した商品を開発し、30枚揃いのセットを発行しました。地域のカバー率も高く、色彩豊かな尾張屋版切絵図は現在でも見やすいものとして評価を受けています。
  • 最後に登場したのが平野屋版です。時期はペリー来航の直前くらいです。この切絵図は他とちょっと雰囲気が違って、今でいうところのメッシュ状に分割されて、縮尺や方位方角が統一された切絵図でした。隣接する地域とのつながりが分かりやすいなどの利点があり画期的でしたが、これまでの切絵図には一枚で描かれていた範囲が分割されてしまうなどの実用性が損なわれた部分もあり、当時の人には人気がでなかったそうです。

 
⑨ 地理学研究会での切絵図の活用

  • 最後に、私達の活動を通して切絵図の活用について見ていきたいと思います。
  • 私たちのサークルでは、江戸切絵図をはじめとした古地図全般を活用した巡検や勉強会を行ってきました。おもに渋谷にあるキャンパス周辺で古地図に興味をもっている会員が集まって、プリントアウトした古地図を手に、その特徴や凡例などを確認しながら歩いていきました。
  • まずは、いまの國學院大學周辺や渋谷駅周辺は昔の地図中にどういう風に表現されていたのかというのを確認しました。大絵図の中には全然詳しいことは書いていないけど、切絵図を見てみると國學院大學の周辺は畑だと分かるねとか、近所の神社とかお寺さんはずっと昔から変わらない場所にあるんだねっていうのを確認しながら進めていきます。特に、身近な地域が出てくると関心を持って活動できますね。大絵図と切絵図では使われ方がどう違うのか、どっちが使いやすいのか歩きながらだとよくわかります。他にも、当時の名残はあるのかなとか探しながら歩いてみて、意外な発見をすることもあります。
  • 例えば、渋谷から麻布に向けて歩いている途中で、有栖川宮記念公園の坂の上で、麻布警察署盛岡町交番というのを発見しました。感が鋭い会員が切絵図で当時の様子を確認してみると、ここは陸奥国盛岡藩主の南部美濃守がもっていた中屋敷があった場所でした。屋敷の敷地が宮家の土地となり、現在は公園となっていたのです。些細なことですが、切絵図を生かして江戸の名残を見つけることができました。他にも坂の名前や橋の名前に江戸の名残を感じることができ、江戸切絵図を活用した有意義な巡検になりました。

 
⑩ まとめ

  • まとめに移ります。何と言っても切絵図の気軽に扱える点は大きな魅力です。歴史地理学という学問を意識せずとも、その入門にピッタリだと思います。きっと歴史地理学の面白さを知るきっかけになると思います。
  • また江戸の人々の事情に合わせて、切絵図が発展してきたという背景を理解できたと思います。様々な種類があった切絵図の中で尾張屋版切絵図の色彩の豊かさや凡例の分かりやすさなどが高い評価を受けてきました。今日でも、表記の分かりやすさは変わることなく、切絵図の代表格として、雑誌などで取り上げられています。
  • さて、今日の話を聞いて切絵図を手に出かけたくなったのではないでしょうか。今日のテーマにも挙げさせていただきました「豊かな表現」に魅力を感じながら、ぜひ江戸の名残を探してみてください。また、いろんな地域の切絵図を見比べて、お気に入りの一枚を見つけてみてください。
  • 内容は以上になります。本日はありがとうございました。

 
(3)地理の会からのお知らせ
① 4月度巡検のご案内                    
② ジオ展出展について                         
 
◆SessionⅡ  懇親会

  • 自由に飲食しながらの懇談を楽しみました。
  • また空想地図カフェの“地理本の森”を自由に散策しました。