地理の会巡検23区シリーズ第19回「荒川区」
テーマ
東京の代表的地形のひとつである武蔵野台地の東端と東京低地(沖積低地)の地形境界と、そのような地形を前提として成立した江戸庶民の行楽地、周辺の坂、切通などの特徴的地形、鉄道敷設とその後の地形改変の跡を歩く。低地地区では下水処理施設の公園化活用、旧来型商店街の現状、宿場町の特徴的施設等を尋ねる。
1. 日時 2024年12月15日(日)13:00-16:14
2. 参加者 14名
3. 巡検行程(荒川区南部のうち西日暮里、町屋、荒川(三河島)及び南千住地区)
約9.6kmの歩行・東京メトロ・都電荒川線、約3時間14分の移動時間、約20mの高低差(最高標高21m、最低標高1m)
① スタート日暮里駅
北改札西口(谷中方面)に集合
② 御殿坂
駅前の緩やかな坂。向かって左側は台東区なので、すぐに横断歩道を右側に渡ります。
③ 本行寺(月見寺・道灌物見塚跡)
江戸庶民の月見の名所。かつては河口付近の沖積低地の広漠たる平野から月が昇るのが眺められたはずですが建築物によって、その景観は失われました。月も集合住宅の屋根から昇るのでしょう。また太田道灌が地形的特徴を活かして物見を設けたという伝承があります。
④ 浄光寺(雪見寺・六地蔵)
江戸の雪見の名所でした。しかし、建物にさえぎられて現在その景観はありません。近代化による景観喪失の一例でしょう。また境内に江戸中期と後期の二体の地蔵が見られます。江戸四宿などに建立された江戸六地蔵と異なり東都六地蔵の一とされます。地蔵信仰には地域鎮護の意味合いがあり、台地と低地の地形境界にある地勢と関連するかも知れません。
⑤ 諏方神社
諏訪大社の分社(「方」の文字が使われていることに注意)で日暮里、谷中の総鎮守とされます。台地の突端に位置し、かつては筑波山が見えたといいます。
⑥ 地蔵坂
浄光寺に六地蔵があることから命名されました。日暮里崖線の段丘崖を緩傾斜路によって通行する目的で造られた崖際道です。崖側に土留が設置され石段の手摺の支柱が半ば埋まっており緩慢な土砂の流下が長期間継続していることがうかがえます。
⑦ 道灌山切通
台地は標高22~3メートル、低地は同1~5メートル、この切通部分は18~20メートルの標高差があると思われます。段丘崖に直交し人為的な地形改変によって造られた切通坂で近代以降、車両通行などのため更に切り下げられ拡幅されたと思われます。付近に道灌山の通称地名があります。
⑧ 京成線道灌山通駅跡
昭18年に戦時統制で不要不急駅として営業休止、そのまま廃止されました。開通当初の京成線は上野から新三河島の間に博物館動物園、寛永寺坂、日暮里、道灌山通と路面電車並みの駅数が開設されました。現在は駅の遺構は認められません。後年、同じ場所に山手線と千代田線の西日暮里駅が開設されたのは現状のとおりです。
⑨ 西日暮里駅〜(地下鉄千代田線)〜町屋駅
⑩ 町屋商店街
⑪ 町屋駅前〜(都電荒川線)〜荒川二丁目停留所
⑫ 三河島水再生センター・荒川自然公園
このセンターは日本で最初の近代的な下水処理施設で1922年(大正11年)に運用を開始しました。現在の処理対象区域は荒川・台東区の全域、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部です。処理された水は隅田川に放流されます。施設の上部は緑に覆われた荒川自然公園(荒川区立)として利用され、遊歩道、池、野球場、テニスコートなどが整備されています。なお、都電荒川二丁目停留所の前に赤レンガのレトロな建物が目に入りますが、これは旧三河島汚水処分場ポンプ (正式には漢字表記)場施設で国重要文化財に指定されています(見学は予約制で可)。
⑬ 荒川二丁目停留所〜(都電荒川線)〜三ノ輪橋停留所
⑭ ジョイフル三の輪
商店街の努力で街路に長大な天蓋が付設され多業種が構成する旧来型商店街が現存している一例です。
⑮ 浄閑寺(投込寺)
千住宿に存立した花街や吉原にも近く大火の犠牲となった遊女等も合葬されました。江戸四宿のうち内藤新宿の成覚寺、品川宿の海蔵寺と同様の目的、機能、地理的背景を持つ投込寺といえるでしょう。
⑯ 簡易宿泊所街
周辺地域は江戸の朱引と墨引の中間に当たり市街地化が進んでいなかったことや荒川の水利もあり近代以降に多数の大規模工場が進出、その従事員のため木賃宿が存在しました。高度成長期には一層増加した出稼ぎ労働者などの需要に対応して成立しました。東北地方出身者が多かったことも、この地域性と関連すると思われます。現在は数軒を残すのみとなっています。
⑰ 延命寺(仕置場跡・延命地蔵)常磐線を挟んで北側に隣接する回向院と合わせて江戸の小塚原刑場跡とされています。境内の地蔵尊は刑死者を慰霊するため江戸中期に建立されました。品川宿に近い鈴ヶ森刑場も同様の地理的背景があると思われます。
⑱ ゴール:南千住駅
4.行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
約9.6kmの歩行・東京メトロ・都電荒川線、約3時間14分の移動時間、約20mの高低差(最高標高21m、最低標高1m)
② 今昔地図(1896年〜1909年、明治29年〜明治42年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます。」「地図中央でコメントを確認できます。」さらにクリックすると「地図を拡大できます。」)
5.巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生です。)
地理の会 講演会
1. 日時 :2024年11月17日(日)13:30〜15:30
2. 開催場所:JR立川駅前「ミライズ タチカワ カンファレンスルーム 9階メインホールB」
3. 出席者 :30名
4. 講演 :「珍しい地名・駅名・踏切名」
5. 講師 :今尾恵介さん(地図研究家、日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査、地理の会会員)
6. 講演概要:
地図、地形、鉄道に関する数多くの著作をお持ちの今尾恵介さんに、「珍しい地名・駅名・踏切名」についてご講演頂きました。
1)珍しい地名
国内に存在する28ヶ所の珍しい地名について、地理院地図、『方言漢字事典』、『角川日本地名大辞典』、訪問先写真などの資料を用いて、それぞれの地名の表記と読み、由来、地形、地質、土地条件および気候風土などの詳細を紹介していただきました。
2)駅名
東京都多摩地区の駅名などを例として、駅名の命名由来について、神社名、大字名、自治体名、施設名およびターミナルの歴史に基づいて紹介があるとともに、駅名の類型についての体系的な分類や、駅名の改称事例についても興味深く研究された成果をご紹介いただきました。
3)踏切名
一般的に注目されない9ヶ所の踏切を実際に訪れて、踏切名の由来・分類を紹介。地元の方から聞き取りを行うなどにより、踏切名には地域の歴史がそのまま凍結保存されている面白さがあることを披露されました。
講演は多数の写真や地図を駆使してわかりやすく説明していただき、出席者一同、充実した講演に大満足でした。
また、今尾さんから地理の会へ、新刊『地名の魔力』を頂戴しました。(下記の本の表紙をクリックすると、出版元にリンクします。)
地理の会 秋の巡検
『箱根外輪山に関東大震災の遺構跡と地質を訪ねて
~根府川でGeo散歩!~』
テーマ
地理の会の秋の巡検は根府川が舞台。今回は、根府川を中心に関東大震災のときに起きた土石流の災害と、箱根外輪山上に位置する根府川の地質について観察しました。根府川はあまり有名な場所ではないですが、小田原からわずか2駅目に位置する風光明媚な地域です。中心はJR根府川駅となりますが無人駅です。実は根府川は箱根の古期外輪山が海に迫っている急崖地に立地しており、箱根から流出した溶岩の露頭が海岸にあるなど格好の地質の教室にもなっています。また大正時代、関東大震災が起きた時にはそういった箱根火山溶岩や火山灰(テフラ)が大崩壊を起こし、根府川集落に壊滅的な被害を与えたり、当時の根府川駅後背地の大崩壊で駅舎や列車がもろとも目の前の海中に没したとも言われています。今回はそういった大崩壊の爪痕や人災を記念した災害伝達碑や流れ下った巨石の実物や土石流に埋まった磨崖仏などを訪ね、午後は海岸に出て箱根溶岩の露頭を観察したり、海岸にある採石跡などを見学しました。
1.日時 2024年10月13日(日)10:00-15:00
2.講師 箱根ジオパーク推進室事務局次長 笠間講師(日本地質学会理事)
参加者 13 名
3.巡検行程
約3.9kmの歩行、約4時間25分の移動時間、約88mの高低差(最高標高88m、最低標高0m)
①スタート:JR東日本東海道線根府川駅(構内の震災記念碑見学)
②根府川駅後背地地すべり源頭あと
③片浦小学校
④ 根府川公民館(遠望)
⑤ 岩泉寺
⑥ 根府川関所跡
⑦ 釈迦堂
⑧ 根府川大根(溶岩、採石跡観察)
⑨ 白糸川を渡る
⑩ 川尻の海岸露頭(成層火山断面)
⑪ゴール:JR東日本東海道線根府川駅
4.行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
② 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」さらにクリックすると「地図を拡大できます」)
5. 巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生)
地理の会交流会(オンライン)
1. 日時:2024年8月10日(土)15:00〜17:00
2. 開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3. 出席者:23名
4. 内容:
「城、城下町特集」
城の見方の基本、城下町の話などの話題提供・質疑応答・城見学の体験談など。
(各項目は、スライド機能です。手動のスライド送り⚪︎をクリックして閲覧してください。)
4-1 講話:「城郭と城下町」 城郭の歴史と変遷・立地する地形と地質・城下町の構造と変貌
講師:坂井尚登さん(会員、国土地理院)
今日は「城郭と城下町」というタイトルで、①「城郭の歴史と変遷」、②「立地する地形と地質」、③「城下町の構造と変貌」という話でお話をさせていただきます。
①「城郭の歴史と変遷」
1) 始原的な防御施設
2)ヨーロッパの城郭の進化
3)中国・朝鮮の城郭
4)日本の近代要塞
5)旅順要塞−沿岸砲台群・堡塁・対壕・カポニエール
6)野戦築城(塹壕)
②「立地する地形と地質」
1)段丘地形の模式図と城郭の立地
2)名古屋城
3)鬼ノ城
4)豊前長野城
5)賤ヶ岳
6)浦添城
③「城下町の構造と変貌」
1)江戸城
2)小諸城・水戸城
3)熊本城
4)玉縄城
5)常陸のお城
6)安芸郡山城・松山城
それでは、今日はもう時間がないので、ここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。
4-2 質疑:「城と城下町に関して」
会員からの質問について、「城郭と城下町」の講師の坂井尚登さんに回答して頂きました。
Q質問①:武士以外の住民を攻撃しないルールなどは無かったのでは?
「城を落とした後は、自分の領地の住民になるから」は諸外国も同じではないでしょうか?
A回答:日本では中世まで戦闘員(武士)と非戦闘員が峻別されていました(「武は家の芸」という考え方)。源平合戦の終わりからこの原則が怪しくなります(源義経が壇ノ浦の戦いの時に非戦闘員である水夫(かこ)を狙い撃ちする)。南北朝から室町時代にかけて悪党(あくとう)、足軽など武士身分とは言いがたい者が戦闘で活躍するようになり、戦闘員と非戦闘員の境界が曖昧になります。彼らは無報酬もしくは低報酬しか与えられない存在である上、中世の軍隊の兵站は極めて貧弱であるため、戦場とその周辺で、人や物、食料を略奪する「乱取り」が彼らの生きる手段となります。これを取り締まるためには、主君の給与で生活できる専業兵士の育成(兵農分離)と厳しい軍律が必要になりますが、織田信長や豊臣秀吉の出現以前には大変難しい話でした。武器を持つ者が持たない者に対してどのように振る舞うのか、現代でも問われ続けている問題です。
Q質問②:戦国時代がもう少し続いていたら、城と城下町の構成が変わったのでしょうか(惣構の発達)?
A回答:その可能性はありますが、惣構の構築には大規模な土木工事が必要であり、それを作るためには、大変な財力と権力が必要となります。惣構が一般化することは難しいかもしれません。
Q質問③:お殿様は城下町に住んでいたのでしようか? 天守閣、城内に住んでいたのでしようか?
A回答:中世は城下町がほとんどなく家臣も自領に住んでいました。日を決めて寺社の門前などで市が立ちましたが、常設店舗はありませんでした。戦国大名が現れると居館周辺に家臣が集住するようになり城下町が形成されます。この時点では、お殿様は城下町に住んでいました(今川氏、武田氏)。戦いが激化すると館は城郭化し、「城内に住む」状態になります。毛利元就のように高い山城に住む人もいました。織田信長は安土城天守に常住していました。平和な江戸時代になると殿様は狭い本丸を飛び出し、より広い二の丸、三の丸や城外に住むようになります。仙台の伊達氏は二の丸と呼称していますが実質は城外に屋敷を構え、熊本の細川氏も城外の花畑屋敷に住んでいます。
Q質問④: 総構えの中にいることのできた平民はどのようにして選ばれていたのでしょうか?
A回答:基本的には、もともと城下町に住んでいる人達です。籠城時には、これに各地から動員された地方領主やその家来、お付きの平民が加わり人口は膨れ上がりました。これらの人々が消費する食料は惣構内では自給できず、開戦前に蓄えた備蓄に頼るしかありませんでした。また、飲料水や排泄物の問題も容易には解決できませんでした。
Q質問⑤:空壕の防御効果についてご教示ください。
A回答:空壕(空堀)と水堀についてですが、近世城郭は水堀、中世城郭は空堀という発達史論的な相違ではなく立地の問題です。平地に築城すれば水掘となり、山や丘陵に築けば空堀となる、ある意味必然です。陸軍は比高1.5mの段差を「崖」として地形図に表示しましたが、比高1.5mは完全装備(30kg)の歩兵が乗り越えるのが困難な段差であり、鎧兜に身を固めた者にとっても同様でしょう。水堀は船を使えば容易に超えられるため、江戸時代の軍学書は空堀の防御力を称揚しています。
Q質問⑥: 平城、平山城、山城という分類が一般的ですが、この分類はどの程度有効でしょうか?
A回答:一見、地形によって分類されているように思える平城、平山城、山城についてですが、平城は低地、山城が山地に立地するのは大体理解できます。しかし、平山城というのがくせ者で、その立地のほとんどが平城との境界があいまいな段丘、山城との境界があやふやな丘陵にあります。松山城のように山城(山上の本丸)+山腹斜面に造成された曲輪(二の丸)+平城(山麓低地の三の丸)という組み合わせのものもここに分類されています。どうも地形による分類とは言いがたいものです。よく時系列的に山城→平山城→平城と移動したとも言われますが、平和な時代の政庁として必要な面積を求めた結果です。
Q質問⑦: 松山城の土砂崩れについて城郭における崩落事例、後世の施工との関係、その危険性などについて実例があればご教示ください。また、熊本城の石垣の地震被害も明治期の陸軍による施工部分に被害が大きいとのことですが。
A回答:松山城の災害については、現地に行かなくてもテレビの映像を見ればメカニズムが分かります。腹付け盛土(原地形の斜面にそのままに盛った盛土)の崩落とそれによる土石流の発生です。国指定史跡である松山城は、本丸外周の管理用道路を作る際に石垣の保全が優先されるため、腹付け盛土で道路幅を確保するしかありませんでした。最初から滑り面があるため、十分に施工及び管理に注意しないと容易に崩落します。一方、熊本城の地震時に崩落した石垣ですが、明治時代の地震で被害を受けた場所と7割以上重複しています。この点は、施工云々というよりも、耐震構造でも基礎があるわけでもない石垣という構築物の限界です。崩れる場所は何度でも崩れる、これは仙台の青葉城でも同様です。
4-3 体験談:「城 探訪」
会員お二人から体験談として「城探訪」をお話しして頂きました。
① 伊豆長浜城(静岡県)
東京から近く、三島から伊豆箱根鉄道に乗って1時間もかからずに伊豆長岡に着きます。修善寺の手前です。そこからバスで行けば簡単に日帰りで十分行けますから、ぜひ行かれたら良いと思います。
② 小机城(神奈川県)
後北条氏時代の歴史も調べたのですけれども、これは省略します。ずっと新しくなりまして、関東大震災の時には泥水が噴き出したり、地面に亀裂が入ったりする液状化現象が小机城の辺りで起こりました。小机城の東方の地盤が悪い所では地震によって地盤災害が発生しました。戦後には鶴見川は大洪水が起き遊水地が運用を開始しました。2004年の台風の時は浸水しました。それから、2011年3月11日の東日本大震災の時に住宅地には関東大震災のときと同じように液状化現象が起きて、地盤被害があったました。最後に、この周辺には水に関係する災害地名が多いので面白いなと思い御紹介しました。
地理の会巡検23区シリーズ第18回「渋谷区」
テーマ
渋谷区は、これまで地理的に様々な形で取り上げられてきました。地理の会でも過去に一度、代官山の巡検を開催しました。そこで今回は、地形観察の宝庫といわれながらあまり取り上げられてこなかった概ね水道道路付近から小田急線の北側までの、知られざる渋谷区北部を歩きました。そして、住宅街や商店街に残る坂、土地の起伏、暗渠など地域の現勢を手掛かりに、台地と川の作る都市地形とその原初的形態、都心に近いまちの地域特性とその変貌を参加者とともに読み解いていく学びの一歩としました。
1.日時:2024年4月21日(土)13:00-16:00
2.参加者:15名
3.巡検行程:
約7.5kmの歩行・鉄道移動距離、約3時間の移動時間、約18.6mの高低差
① スタート:京王線初台駅
- 参加者紹介の後、今回の巡検の行程について案内者より説明がありました。
② 河骨川(春の小川)最上流部
- 歩いた場所は、住宅地・舗装道路化され、小川が流れていたところだったとは想像できませんでした。
- 河骨川は渋谷川の支流である宇田川に合流します。戦後は生活排水による悪臭が問題になり、1964年の東京オリンピックを機に暗渠化されました。名前の由来はコウホネ(クリックするとリンクします。)が咲いていた場所であることからで、唱歌『春の小川』のモデルとされ、作詞の高野辰之は川がある周辺に住み、農村の小川のようなのどかな風景が存在していました。
③ 玉川上水暗渠・京王線軌道跡
- 木々が植えられて、道幅も広い遊歩道で、都会のオアシス的な場所でした。
- 玉川上水旧水路緑道(クリックするとリンク)は、延長約6キロメートルの都市公園になっています。
- 京王線は、車が増えるにつれて新宿西口の京王新宿駅から文化服装学院までの甲州街道上の併用軌道が問題になり、新宿~初台間の地下鉄化と新宿駅の地下化工事が開始され1963年(昭和38年)に完成させました。その後1978年、さらに新宿~笹塚間は複々線となり、初台、幡ヶ谷を通る各駅停車線は地下化された京王新線と呼ばれ、今日に至っています。
④ 甲州街道
- 首都高速道路と甲州街道を横断しました。
- 幡ヶ谷台地には、玉川上水と並行して、江戸幕府によって整備された五街道のひとつで、甲斐国へつながる甲州街道が通っています。
⑤ 旗洗池跡
- 道路とビルの間のスペースに案内板と石碑がありました。
- ここには、神田川笹塚支流に注ぐ自然の湧水の池があったといいます。後三年の役の後、源義家が上洛するときに、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があり、また幡ヶ谷という地名の由来になったとのことです。
⑥東京オペラシティ(旧・東京工業試験所)
- この辺りの道を歩いていると、「東京オペラシティビル」や新宿副都心の高層建築群が必ず目に入ってくる風景でした。
- オペラシティは、新国立劇場および、民間の超高層ビル「東京オペラシティビル」(東京オペラシティタワー)で構成されている複合文化施設です。当地にはもともと、旧通産省東京工業試験所(新国立劇場部分)が存在しました。
⑦幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)
- 都会の中では、広い敷地を有するお寺でした。
- 創建は1561年で、荘厳寺(しょうごんじ)は、一般には幡ヶ谷の不動様、幡ヶ谷不動尊などで知られています。
- また、みちしるべ(クリックするとリンクします。)として常夜燈が置かれています。
⑧不動通り商店街
- 幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)の前の道路は「不動通り」と呼ばれ、古くから不動尊への参道としてにぎわい、現在は商店街 「不動通り商店街」となっています。
⑨神田川笹塚支流暗渠遊歩道
- 緩やかな坂を下ると、家の間を抜けていく遊歩道に遭遇しました。
- 笹塚・幡ヶ谷をへて西新宿へと流れていた「神田川笹塚支流(和泉川とも呼ばれる)」の暗渠の遊歩道です。
⑩旧本町小学校と地蔵橋(本町学園第2グラウンドの複合施設:建設中)
- 遊歩道を歩いて、学校のグラウンドの門前に橋の跡地を見つけました。
- 旧本町小学校の脇には地蔵橋という橋が架かっていたため、付近では「地蔵川」と呼ばれていたという伝承があります。しかし渋谷区の歴史資料には一切その名前は記述されていません。
⑪本村隧道
- 遊歩道を離れて南に向かって、広めの道路の下部にトンネルを見つけました。
- 玉川上水新水路の1892年(明治25年)12月着工後、本村隧道も1893年(明治26年)4月14日に着工し、同年7月20日に竣工しました。その外観はパルテノン神殿を彷彿とさせる荘厳な造りをしており、全幅は5m、有効高は3.4mです。
⑫水道道路
- 広めの道路は、かつての水の通り道として真っ直ぐに伸びた整備されている道路でした。和泉給水所から淀橋浄水場を結んでいた玉川上水新水路の跡を埋め立ててつくられたため、水道道路と呼ばれています。
⑬都営本町一丁目アパート
- 水道道路が用水路の役割を終えてからは、住宅不足解消のため空地に住宅建設が行われました。戸建ての公営住宅であったものも、昭和30年代以降に鉄筋の集合住宅に近代化され、この都営アパートもそのうちの一つです。1973年建設の48戸。堤防状の水道道路の道路脇の幅の狭い土地を最大限利用して細長く建てられています。
⑭本町隧道(本町ずい道公園)・六号通公園
- 本町ずい道公園・六号通公園で休憩しました。
- もともと3か所あった隧道のうち1か所は廃止され、2ヵ所が残っていましたが、道路拡幅により本町隧道も1975年(昭和50年)に新トンネルとなったため、当時の姿で現存するのは本村隧道のみです。
⑮六号通り商店街
- 京王線幡ヶ谷駅に向かう、「六号通り商店街」を通りました。
- 玉川上水新水路には、この橋を含め16の橋が架けられており、この橋が新宿方面から数えて6番目の橋であったことから「六号橋」と命名され、六号橋がある道路を「六号(橋)通り」と呼ぶようになりました。
⑯ 京王線乗車
- 幡ヶ谷駅で京王線に乗車して、笹塚駅まで移動しました。
⑰玉川上水跡・遊歩道・笹塚橋・旧三田用水取水口
- 笹塚駅南口を降りたったところから、暗渠部が続いていた玉川上水が一部、開渠が保存されていました。
- 再び暗渠になる地点に旧三田用水の取水口があります。三田用水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。用水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。
⑱消防学校前・玉川上水跡・遊歩道・常盤橋
- 五條橋から消防学校前(常盤橋)まで、玉川上水跡地を歩きました。
- 笹塚橋から東に住宅地を常磐橋まで歩くと笹塚橋では南に向かっていた遊歩道が常磐橋では北に向かっており玉川上水がU字に屈曲していることが実感されました。
- 武蔵野台地末端の淀橋台の端には、南西から北東に続く浅い谷筋があり、神田川支流にはいくつもの支谷が刻まれています。この付近には「牛窪」と名付けられた谷から、小川が流れ出ていました。淀橋台のもっとも高いところに流れていた玉川上水は、その谷の部分を避けるようにして、Uの字に蛇行しています。
⑲代々木大山公園
- 玉川上水跡地を遊歩道から南へ、緩やかな坂を下り上りして、代々木大山公園で休息しました。
- 渋谷区立公園のなかで一番大きい公園で、以前は防空小緑地として整備されました。
⑳宇田川の谷
- 緩やかな長い下りの坂を歩きました。
- かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、そこから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれています。
㉑大山町・西原3丁目邸宅街
- 坂に沿って、新旧の敷地の広い家並みが続いていました。
- 東京都渋谷区・旧代々幡町の西部に位置し、世田谷区(北沢)との区境に当たります。町域の北部から東部は西原、南東部から南部は小田急線の線路を境界として上原に接し、高級住宅地区の一つ、「代々木上原」地区に属する町域となっています。
㉒ 西原児童遊園
- 駅近くの小規模集合住宅などに囲まれ曲がりくねった細い暗渠を歩いて行くと、小さな児童遊園地に行きつきました。
- 尾根道である甲州街道に沿って敷設された京王線と隧道工事を避けて谷筋に沿って敷設された小田急線の対比が分かります。
- この近辺では、駅南西側の谷からの支流が合流していました。代々木上原駅前から代々木八幡駅近辺にかけての宇田川流域一帯は、かつては「底ぬけ田圃」と呼ばれる低湿地帯で、踏み入った鳥追いが泥に呑まれ溺れ死んだとの伝承も残っているそうです。
㉓代々木上原駅前急傾斜地
- 特に名前の付いた由緒ある坂ではなさそうですが、宇田川の侵食で造られた谷の急坂でした。急坂の頂上からは渋谷駅周辺の高層建築群が望めました。
- この坂を駆け上るTV(テレビ朝日)映像がありました。全力坂 No.3288 高橋媛 西原三丁目の坂 - YouTube
㉔ゴール:代々木上原駅
- 急坂を下り、小田急小田原線の代々木上原駅に到着しました。
4. 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
約7.5kmの移動距離(歩行・鉄道)、約3時間の移動時間、約18.6mの高低差
② 今昔地図(1896年〜1909年・明治29年〜明治42年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます。」「地図中央でコメントを確認できます。」さらにクリックすると「地図を拡大できます。」)
5. 巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生です。)
ジオ展2024出展
1. 日時:2024年4月19日(金)10:00〜17:00
2. 参加方法:展示ブース
3. 出展内容:(当日撮影した写真掲載予定)
1) 展示
①掛け紙から見る駅弁と地理
②地理の会の紹介と巡検地一覧
2) 販売
・会員執筆の書籍(5人・5種)を著者割引販売
チラシ配付
・地理の会のチラシを制作し配付
4. 成果と所感
・地理の会として初めてブース出展し、多くの方に来場いただきました。会場内は、すれ違うのも難しいような盛況で、来場者数1,072名、ブース出展者数180に上りました(過去最大)。
・地理の会は、非営利団体として活動PRがベースですが、地図や地理への関心を通して、さまざまな来場者と情報交換ができたことは大きな成果でした。また、学生さんの訪問も多く、平均年齢の高い地理の会としては多くの気づきももらいました。
地理の会交流会
1. 日時:2024年3月16日(土)18:30〜21:00
2. 開催場所:地理系ブックカフェ空想地図クリックするとリンクします。)
3. 出席者:15名
4. 内容:
「♪春の 空想地図カフェで“地理なひととき“を!」
◆SessionⅠ 講演&お知らせ
(1)『ファミレスの店長がなぜ“地理系BookCafe”を始めたか』
空想地図カフェ店主
① 自己紹介、ファミレスで仕事一途な時代!
- 1970年7月に静岡県の御殿場市で生まれました。幼少期から高校まで静岡・沼津・浜松など、親が転勤族だったので、3〜4年に1回は引越しという生活をしていました。
- 1990年初頭、大学が京都だったので、京都で4年間生活をして、1994年、ファミリーレストランのデニーズに新卒で入社いたしました。
- 最初の赴任地が静岡県の伊東市の伊東港近くのデニーズに新入社員で配属され2年間働きました。
- 静岡の店を移動して、店長という形で就任させていただきました。その後、愛知県の一宮、岐阜県の大垣、最後は大阪まで移動しました。
② 空想地図、世にでる!
- 続いて、このお店を始めるきっかけというのは何だったのかということですが、X、以前のツイッターですが、ここでの「つぶやき」が最初のお店を始める一つのキーワードになっております。
- 当時、我が家では愛知県の一宮市で生活をしていました。2017年は、私が東京に出張する機会が多く、その帰りに静岡の実家に帰った際に、たまたま押し入れで、私物を整理していたのですけれども、その際に学生時代に書いた巨大な地図、空想地に全く架空の地図を描いたものを見つけ出して、そのまま愛知県の一宮の自宅に持ち帰りました。
- その地図を、まず妻と子供に見せました。最初は、妻は「何、この汚い地図は?」みたいな感じで言っていたのですけれども、それが「昔、僕が書いた架空の地図です。」ということで、妻も大変驚きまして、その際にこの分からないものを当時、妻の仕事の職場とか知り合いとかに話しても無関心でした。
- 闇を感じるとか言われて、誰も相手にされませんでした。じゃあこの地図をどうやって人に広めようかということで、名古屋のメディアだとか、大阪の「探偵!ナイトスクープ」、そういう番組とかにもいろいろ出したのですけれども、全く相手にされませんでした。
- それを見かねた長女がツイッターで2017年の11月にツイートしました。そのまま文面を読むと、「パピー(父)が小学生から大学生になるまで書き続けていた、手書きの架空の地図の資料を結婚してから初めて見せてもらったことに感動して、どうにかしてこの地味な才能を広めたいと色々な場面に、マミー(母)が投稿しているらしいが空振りみたいなので、娘の私が拡散しておくな。」とツイートを書きました。
- 当時、娘なのですけれども、ハンドルネームでつぶやいていたのですけれども、このフォロワーさんが当時1万人ぐらいいる形だったので、瞬く間にツイートが「ばずり」まして、結果1万件のリポストリツイート437件の引用リツイートで7.5万件の「いいね」がつきました。
- これで結構メディアだとか、ネットのニュースとか、いろいろな方から取材の持ち込みがありました。そのうちの一つがこういう感じで「ネトラン」とか「プレジール」とか「YAHOOニュース」だとか、「LINEニュース」とかに載りました。その中でメディアから連絡があったのは、当時の日本テレビの「スッキリ」という番組とフジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」でした。先に「奇跡体験!アンビリバボー」の話が進んでしまったために日本テレビの方はポシャリました。2018年の6月14日、「奇跡体験!アンビリバボー」の番組(クリックするとリンクします。)で取り上げられました。
③ 空想地図カフェ開店へ!
- その後、中京エリアから大阪に転勤して2020年にコロナ禍に入ります。コロナ禍で、最初の頃は飲食店というか、大手ファミレスは、休業までいかなかったのですけれど、営業時間を短縮しまして、小さい飲食店とかは補助金で何とかなるのでしょうけれども、大手会社でその補助金だけではとても賄いきれないものがありました。
- グループにコンビニがあっても、そんなところはお構いなしで、当社の希望退職募集がありました。そして、たまたまその2021年3月というのが、長女の大学の卒業と長男が高専高等専門学校で卒業のタイミングで、我々も当時ちょっと行き詰まっているところもあって、じゃあ何か新しいことを始めようかというところで会社を辞めまして、退職金で、このお店の開店資金の原資としました。
- では、店が駒沢に決まるまでというお話なのですけれども、最初3月に会社をやめまして、その後、会社の用意したコンサルタント会社がありまして、そちらの方でいろいろ相談をさせていただきました。コンサルタント会社の人にもいろいろ「飲食店がこういうものだよ」みたいな形で飲食店とか営業へのやり方とか、いろいろ伝授させていただきました。8月に当時大阪に居たのですけれども、そのまま何のあてもなしに東京に来ています。
- 子供たちは独立しているので、我々二人だけの生活だったので、全てを投げ捨て東京に引っ越してきました。そこからお店探しをスタートいたします。東京の23区全てまわりました。住まいは、引っ越してきたのは三鷹だったのですけれども、最初、京王線の町だとか、それからだんだん広げていき、東京の東エリアの葛飾区とかそのほぼ全部回って何10件も物件をいろいろ見させていただきながら、何ヶ所か欲しい物件がありました。いろいろ探していくうちに、駒沢のここの場所を当時のコンサルタントの方に紹介していただいていまして、この場所に店を申し込みさせていただきました。3月に物件の申し込をして、5月にツイッターの方でアカウントを作りました。
- その後、7月から本格的な工事が始まりました。お店の名前、空想地図という名前にしたのは、最初「なんとかコーヒー」とかいろいろなことを考えたのですけれども、最終的に空想地図でやろうということで、決めさせていただきました。工事が終了して、2022年の9月に無事にオープン致しました。 プレスリリース(クリックするとリンクします。)
- そのオープンの時に、たまたまTBSラジオさんの方から安住さんの日曜天国というラジオ番組があるのですけれども、こちらの生放送の中継がオープンの10日ぐらい前からありまして、お店の宣伝とかをしていただきました。
④ 何故、地理カフェを開店したか? 答えは、生い立ちに!
- なんで地理カフェを始めたのかという話ですが、地図カフェでもよかったのですけれども、なぜ地理カフェにしたのか。これは単純に2022年の4月に、地理が高校で必修になったというニュースを聞きまして、ただそれを聞いて地理カフェになりました。もともと僕は地理という科目は選択してなかったので、高校の時も日本史か世界史で地理の選択肢はなかった記憶があるのですけれども、何で地理にして大丈夫かなっているところもあったのですけれども、それは後付けでいろいろな皆様、いろんなお客様からそういう関係の本をいただいたり、勉強させていただいたりしているので、どんどんそういう地理っぽくなってきたかなという感じですね。
- その地理が好きになったきっかけということで、きっかけは当時1973年ぐらいですね。3歳ぐらいの時ですけれども、おもちゃ屋で地図パズルを見つけまして、これを母親にせがんで買ってもらう。これがきっかけで地図が好きになっていったのですね。
- 当時、「ダイアブロック」とか、いわゆるレゴみたいな形で街を作ったりとか、ミニカーで遊んだりとか、そんなことをやりながら街の地図だらけだったりとか、そういうことでどんどんはまっていきました。小学校低学年時には絵日記なども地図ばっかり、絵を描かずに地図ばかり描いていましたが、その後、浜松の小学校へ転校がありまして、空想地図シリーズを始めたということになります。
- 空想地図の話になるのですけれども、空想地図とは「何?」ということで、フィクションの地図でこの世にない街を紙に描いて楽しむことなのですけども、僕が描いた静浜市という地名は、静岡と浜松の合成地に入れて、小学校のときは農村などに高速道路のインターとか民家の地図とか、親が免許の更新時にもらってくる、交通教本みたいなのに、道路標識とかがいっぱい書いてあるのですけれども、ああいったものを見ながら道路地図を書いていたりとか、そんなことをしながら幼少期を過ごしまして、中学時代に勉強と称して机に向かって地図を書いたりとか、そんなことばかりしていました。
- 今、こういう風に今、地図に関するいろいろな資料だとか、ちょっとこれは見にくいかもしれないのですけれども、いろいろなものを書いて楽しんできました。高校野球も好きだったのですけれども、このスコアが全く架空のスコアで、もともと高校野球って小学校2年生の時の自由研究をやりまして、その時に高校野球の歴史を調べまして、そこからいろいろ夏春すべて何県の高校、全て好きで覚えました。その流れで、空想地図の中にも高校野球があるのではないかということで、勝手に架空の空想地図の高校大会みたいなものを開催したりしていました。テレビ番組を勝手に空想でタイムテーブルを作ってみたりしていました。
- 当時この静浜という架空の街の市民はどんな感じで生活しているのかなというところで、当時僕がそうですね。20歳ぐらいの前くらいに、こういうペアマックという町の娯楽を書いた地図がありまして、これを渋谷とか新宿とかになっていますけれども、これは静浜版ということで、これも架空で書きました。
- そんなことで街にある、映画館とか未来都市の鳥瞰図的なものを書いたりしていました。その後、ずっと就職してからはこういう空想地図を書いていなかったのですけれども、このお店をやるにあたって、30年ぶりにリニューアル版というものを作りまして、今この店に貼ってあるのですけれども、よろしかったら見てください。本日は、ありがとうございました。
(2)『地理学を自主的に学んで見るもの・見えるもの』
國學院大學地理研究会 (クリックするとリンクします。)
(2)-1 Introduction 『國學院大學地理研究会について』
① 國學院大學地理学研究会紹介
- 國學院大學(クリックするとリンクします。)では、地理学科が無いのですけど、6学部13学科があります。もちろん、皆さん御存じだと思うのですけど、日本で2つだけ、神主、神職の要員を養成する学部があります。有名なところで文学部、特に史学科が有名だと思うのですけど、意外といろんな学部があります。最近できた私がいる観光まちづくり学部なのですけど、2年前にちょうど新設されまして、まだ2年生までしかいない学部になっています。私が1期生というタイミングでした。渋谷とたまプラーザにキャンパスがありまして、人間開発学部と観光まちづくり学部はたまプラーザキャンパスにあります。
- 國學院大學地理学研究会の設立は2021年の12月というとことで、ちょうどここの「ブックカフェ空想地図」と同じぐらいであります。3年目のサークルになります。3年目のサークルなので、私が今3代目の会長です。創設者の先輩にお聞きしたところ、多くの大学で地理関連のサークルがあることを知って、自分も大学の地理研入ろうと思ったんですけど、國學院大學には地理研がないので作ってしまおうということで作られたそうです。
- 最近、地理研ブームなところがあって、他の大学でもここ数年ですかね、新しく地理学研究会のサークルができているそうです。今、本大学で地理学が無いのに地理学研究会に入っていますが、史学科の学生が4割ぐらいで、観光まちづくり科の学生が3割ぐらいです。残りはいろんな学部の方が所属しています。1年生が一番多いのですが観光まちづくり科が2年生までしかいないので、今後増えていくのではないかなというところで、半々になってくるかなというふうに思っています。
② 地理学研究会の活動内容
- では、ここから手元の資料「こくちり FACTBOOK2024」で説明致します。本大學の地理学研究会では、主に4つ大きな活動があります。1つ目が巡検で、いろんな地域に行って地域を学んでおります。あと合宿で年に2回、あとはメディア作成、そして会誌作成も行なっています。先程、他の大学でも地理研が結構できているというふうにお話しさせていただいたのですけれども、駒沢大に地理学科もありますので、駒沢・早稲田・法政大学の学生の皆さんといろいろ企画交流を行っています。特に夏休みにアンテナショップみたいな企画を行なっています。今、全国地理学系サークル連合会(X:旧ツイッター)があるらしいですね。私も詳しくは知らないのですけど、全国規模で地理研が続々とできているそうです。
- 次のページです。ここ半年で行なった巡検について、6箇所について説明しています。先ほどもお話あったように、古地図を用いて巡検、また都市開発の観点から、汐留で都市プランナーの方に協力頂き、先進的なまちづくりを学んだり、結構、歴史と都市開発の対極な軸で活動しています。次の佐倉巡検ですけど、佐倉市については佐倉市の教育委員会の方に全面的に協力頂いて、勉強会を開いて巡検を行うということも行っています。また、佃巡検というところで先ほどご紹介させていただいた前々会長の卒業論文のテーマが佃を取り上げたものだったので、最後の卒業巡検というところで佃巡検をしていただきました。
- 続きまして合宿なのですけれども、合宿は、夏休みとか春休みを利用して遠くに行こうということで、夏休みはしまなみ海道に行きました。顧問の先生が歴史地理学の先生でして、絵図などを用いて尾道で海岸線の変遷や街路網、主要寺について講義していただきました。また、大分は遊びモードというか、温泉に入りに行こうということで、先月に、大分にみんなで行きました。ほぼほぼ雨でした。なかなか過酷だったのですけれども、みんなで楽しめました。
- ちょっと宣伝ですけど、ここの空想カフェで、ずっと置いていただいていたのですけども、いろんな巡検だとか勉強したこととかを10月の学園祭で売るために毎年本を出しています。学園祭で売れきれず、販売していますので、もし良かったらお願い致します。その他、パンフレットも用意していますので、懇親会で、色々とお話しできたらと思います。ご清聴ありがとうございました。
(2)-2 ミニ講演『佐倉牧から自然環境と文化を知ろう!』
① 近世の佐倉牧-概要
- 北総にあった佐倉牧について紹介したいと思います。まず、牧というのは、自然地形を利用して牛馬を放牧して飼育する施設で、前近代社会における牧場と位置づけられています。江戸時代に幕府の軍馬を確保するために設けられた牧が現在の千葉県で3つありました。佐倉牧はそれのうちの1つです。
- 佐倉牧は油田牧・矢作牧・取香牧・内野牧・柳沢牧・小間子牧・高野牧という7つの牧から構成されています。ここで放牧されている馬のことを野馬といいます。現在、野馬が見られる馬としては宮崎県の串間市の都井岬にいる岬馬がいます。
- この放牧されていた野馬を管理していたのが牧士と呼ばれる人たちです。この佐倉牧では人の手を加えずに、放牧させる形で馬を生産していました。基本的にはほったらかしで繁殖も全部自然のままに任せるのですが、雪が降った時や日照続きの時は、馬が自力で食料とか水の調達することができないので、その馬の手助けを牧士が行ったりしています。ワラを与え、桶に水を入れて飲ませていました。雪の中に雪が積もると、その雪の下にあるワラとかを馬が掘って食べようとします。積雪量が多いと掘るのに体力を消耗してしまい倒れて餓死ということがあるため、人間が手助けする必要があるのです。
- 牧で育った馬は年間約2頭が幕府の軍馬として取り立てられます。それ程いい馬でなかったら農民らに払い下げられたりしました。農民へ渡るのは毎年約100頭ぐらいですね。
② 近世の佐倉牧-管理組織
- 牧の管理組織のトップに野馬奉行、その下に牧士、その下に牧付村があります。その野馬奉行の事務所が今の松戸市にあり、綿貫家がずっと世襲していました。
- 牧士には有力な家の有力な豪農や有力の家から登用された者が多く、牧士に選ばれている期間は苗字帯刀と乗馬が可能で、武士のような扱いをされていました。牧付村は牧の近辺にある村で、維持や管理費の負担していました。
- 徳川吉宗の時代に佐倉牧の管理組織が幕府と佐倉藩に分けられます。管理形態が1つの仕事を2つの部署に分割して競争させ効率を上げる事が狙いでした。そしてこの体制は幕末まで続きました。
③ 近世の佐倉牧-自然環境
- 牧は下総台地上に存在していました。自然地形を利用して牧は運用されていました。利根川や江戸川などの河川から枝のように、谷に入れ込んで台地を侵食したところを谷津と呼びます。谷津は水田化されて水田の端には湧き水があるので、その湧き水を馬の水確保に使っていました。牧の周辺を土手で囲んで牧の内部に繋がる出入り口には木の柵が設けられて、人間と生活区域を別にしていました。
- 牧を設置する上で、馬には3つの要素が必要になってきます。食料と水と山林です。食糧には黒ボク土と呼ばれる農業に適さない土地に自生する植物が必要になります。また牧にある山林は馬が睡眠や風雨をしのぎ、眠る時の居場所になります。水は先述した谷津の湧き水です。この地域が牧として使われたのも必然的だと言えます。
④ 近世の佐倉牧-野馬込
- 牧には野馬込という施設があります。幕府に馬を送る馬を選定するところです。この野馬込の中は「 払込」、「捕込」、「溜込」の3つの場所に分かれています。
- 繁殖のために野に返す馬を置いておく「払込」、集めた馬を置いておく「捕込」、払い下げの馬を置いておく「溜込」です。毎年7月から一番北にある油田牧から南に向けて2ヶ月程かけて馬を集めて選定していきます。馬を土手に追いやる作業は人も時間も必要なため2か月ぐらいかけて行なっていました。
- 現在の香取市にある油田牧跡は令和元年に国指定の史跡として登録されました。香取市のホームページからパンフレットを閲覧することができます。写真の油田牧跡の大きさからは広大な牧で馬を集めることの大変さが窺えます。
⑤ 近世の佐倉牧-炭産業
- 近世後期になると関東各地で薪炭の生産がされるようになります。これは人口の増加に伴って江戸で炭の需要が増えたからなのです。炭は暖炉や生活用品だけではなく鉱山や茶道にも使われました。
- 佐倉にも佐倉炭という銘柄の炭がありました。北総の地域を中心に、クヌギを蒸し焼きにして作った黒炭です。見た目は火持ちから良質の炭と評価され、佐倉牧周辺の木を伐採し製炭し江戸に出荷していました。現在は千葉で生産されておらず栃木県や福島県で生産されているようです。
⑥ 近代から現代へ-明治維新後の開発
- 佐倉牧は幕政時代が終わると共に終焉を迎えます。その後牧の周辺および牧のあった場所では開発がどんどん行われていきます。
- 明治政府の下総台地開墾事業により開墾会社(現在の三井物産)が設立され千葉県内の土地が開墾されました。牧の一部は御料牧場や馬匹や農業に関する研究所が置かれました。
- 第2次世界大戦後の1945年以降、この地は復員者・海外引揚者、沖縄出身の人々の入植が行われました。1966年の閣議決定では成田国際空港が建設されることが決定するなど時代と共に変化していきました。
- 谷津は水田として1900年代前半まで多く利用されていましたが、1960年代から利根川沿いや印旛沼周辺に大きな水田が作られていくと、手狭で排水も難しい谷津は徐々に利用されなくなり、休耕や耕作放棄が進みました。その後も1970年代以降の都市化や宅地造成によって谷津の埋め立てが始まり、宅地造成によって雨水が浸透しなくなり谷津の湧き水が減少します。
- このような谷津の消滅を受け現在では各自治体や非営利組織が保全活動を行い谷津の自然湿地化や子供たちへの環境教育を行っています。
⑦ 近代から現代へ-現在の姿
- 現在では成田空港や京成電鉄、総武線が走り、宅地造成が盛んに行われ、富里市のスイカや八街の落花生などの土地を生かした農業が行われています。
⑧ まとめ
- 農業に向かない土地を牧や炭の生産に利用して、牧も谷津や山林を利用して馬の生産を行っていました。様々な方面から自然を利用して、経済活動や文化が回っていたと思います。
- 現在でも牧のあった場所には成田空港が置かれたり、スイカなどの畑作農業が行われたりと、自然環境を利用して経済活動が行われていることを、千葉県出身のわたしですが改めて知る機会になりました。
- 自分が何げなく歩いていたところも、過去から現在にどうやって繋がっているかを調べることで、何かただの土手かと思ったものも歴史的価値のある事を知ることができました。
(2)-3 ミニ講演『江戸切絵図で親しむ歴史地理学』
① 概要
- 本日は、「江戸切絵図」をテーマにお話しさせていただきます。
- まず初めに江戸切絵図の概要を色々と紹介させていただいて、その後、実際の江戸切絵図を例に具体的に見ていきます。最後は江戸切絵図を使った地理学研究会での活動の様子をご紹介したいと思います。
- 早速ですが、江戸切絵図を見たことがある方、名前を聞いたことある方はどのくらいいらっしゃいますか。江戸切絵図というのはその字の通りで江戸時代に使われた、江戸の地域を何枚かに分割した地図・絵図になります。後で紹介するのですが、いろいろな種類があって表現も豊かで眺めるだけでも十分面白いです。また、東京周辺に暮らしている私たちからすれば、気軽に活用していけるものかなと思います。
② 切り絵図との出会い
- さて、私は2年次の演習で、尾張屋版の切絵図を用いて麻布地域を調査せよという課題が与えられて、「東都麻布之絵図」という切絵図を扱いました。切絵図のコピーをもって絵図に示された範囲を1日中歩き回り、どういった寺社仏閣があるのか、江戸時代からどう街路網が変化したのかなど、現地写真を撮って後でまとめて発表という内容でした。そういったこともあり、私は切絵図を身近なものとして感じております。
③ 江戸切絵図とは?
- 本日は『江戸切絵図で親しむ歴史地理学-豊かな表現が魅力の江戸切絵図を手に江戸を歩こう-』というテーマを設定しました。少しテーマについて説明します。
- まず、“歴史地理学”って何?ということですが、詳しく触れると深入りしすぎますので、簡単に「歴史学は時間、地理学は空間、歴史地理学はその融合」という風に考えていただければよいかと思います。
- 次に“豊かな表現”について。特に尾張屋版の切絵図は色彩の豊かさが特徴になっています。また、途中で紹介しますが、絵図の凡例がとても理解しやすいので、古地図初心者の方にもおすすめです。江戸切絵図の実用性は、実際に手にもって歩けばよく分かります。サイズ感もコンパクトなので、とても使いやすいです。また、切絵図を内容として扱った書籍というのは大変多く出ていますので、皆さんも意識せずとも切絵図に触れる機会がこれまであったのではないかと思います。
- 最後は“江戸東京を歩こう”ということで、江戸の面影が大変多く残っている東京の町を、切絵図を通して見てみると新しい発見があるのではないかなと思います。東京散策や江戸へのタイムスリップの手掛かりにしていただければと考えています。
④ 切絵図の誕生
- 切絵図は国会図書館のデジタルコレクション(クリックするとリンクします。)で、皆さんも自由に閲覧することができます。
- 切絵図が登場する以前は、地番制度がなく住居表示の手段が無かったので、その人の記憶に頼ったり、見当のある地域まで行って辺りにいる人に尋ねたり、ちょっと不便な状況でした。特に屋敷には表札がなく、迷子になって江戸を彷徨う人たちも多くいたとか。
- また、江戸は参勤交代で全国各地から人々が集まる場所でもありました。江戸に詳しくない人たちが無事に目的地にたどり着くために地図は欠かせない情報ツールとして使われていました。ただ当時の地図はとても広い範囲を描いた大きな地図だったので、持ち運びには不向きで、記載される情報も少なめでした。そこで江戸を分割して描き、紙面に余裕をもたせて、より詳細な情報を記載した切絵図が登場してきます。
⑤ 切絵図を使ってみよう
- それでは、切絵図の機能について見ていこうと思います。ここでは、より理解しやすくするために、「切絵図」よりも広い範囲が一枚の紙面に描かれている「大絵図」を使い、比較しながら進めていきます。
- 今回は、赤坂にある「氷川明神」から同じく赤坂の「青山備中守屋敷」まで移動して検証してみることにしましょう。
- まず皆さん、どこが氷川明神でどこが青山備前守屋敷か大絵図から見つけられましたか?多分かなり分かりにくいと思います。一応、氷川明神には、社殿のイラストが描かれています。ただ、色付けとかここが神社だよっていうものを示す手掛かりがなく分かりづらいですよね。
- 一方、青山備中守の中屋敷は、ただ「青山」と書かれているだけです。周辺にも青山と付く屋敷がいくつかありますから、こちらも分かりづらいですね。この情報不足をどうやって補っていこうかっていう工夫が切絵図の一番画期的な部分になっていきます。
- 加えて、今回のケースでは大絵図の一部分しか必要としていませんよね。例えば、浅草の方も同じ1枚の絵図に描かれていますが、今回は完全に不要な部分となってしまっています。それでは切絵図を使うと、どういう風に変わるのか見ていこうと思います。
- 今回使うのは尾張屋版江戸切絵図のうち「赤坂絵図」になります。赤坂の地域だけが示されています。さっきは苦労して探した氷川明神も青山備中守屋敷もすぐに見つけることができますね。氷川明神は敷地が黄色く塗られていますよね。さらにイラストもついて華やかになり、ひと目でここが神社だと分かります。そして青山備中守屋敷は屋敷の周辺がより詳しく表記されていますね。例えば、「青山」だけでなく、「青山備中守」とか、反対側は「青山下野守」とか。分かりやすくなりました。
⑥ 大絵図と切絵図の機能の比較
- さて、大絵図と切絵図を比較して切絵図の便利さが分かったところで、改めて大絵図と切絵図の機能を確認しましょう。
- 江戸大絵図の場合は、江戸を1枚の地図で表現するので、全体を俯瞰して見ることができます。区分にとらわれないという特徴がありますね。他にも方位や縮尺が統一されているので、目的地までの方角や距離感がすぐに分かります。それから江戸全体をカバーしているので、大火の際には被害の把握や復興に向けた都市計画にも役立てられたそうです。
- 一方で、皆さんも大絵図をご覧になってよく分かったかと思いますが、屋敷や道筋などの細かい部分については情報の不足がありました。限られた紙面では、載せられる情報も限られていたのです。
- 続いて、切絵図はコンパクトで持ち運びに便利という手軽さが大絵図と比べての大きな特徴になります。必要部分を選択して、そこを所有すれば用事が済むかもしれません。地域別に分割して表示されますので、紙面にゆとりが生まれ、その分情報がより具体的に表示されて見やすくなっています。そして、地域ごとに発行がされたので情報のアップデートがしやすいという利点もありました。当時は屋敷替えも多くあり、そうした地域の変化を柔軟に反映して新しく発行することができました。
- 一方で、ほとんどの切絵図は方角や縮尺が統一されておらず、隣り合った切絵図どうしの縮尺が異なり、つながりが薄いということも少なくありませんでした。
- このように、大絵図も切絵図もそれぞれ強みと弱みがあります。どちらかだけが使いやすいということはなく、用途に合わせて利用されていました。
⑦ 切絵図の凡例
- 続いて、切絵図の凡例を紹介します。切絵図の凡例はとても分かりやすく、初心者にも易しいです。
- 尾張屋版「江戸切絵図」では、屋敷の格を表す工夫として、上屋敷には家紋、中屋敷には黒四角、下屋敷には黒丸が付されています。また、寺社仏閣は赤色、道路は黄色、水辺は青色、畑などは緑色で塗られ、土地利用が一目で分かるようになっていました。ちなみに、先ほど見た氷川明神は黄色で塗られていましたが、こうした有名な寺社仏閣など強調したい名所などは目立つ黄色で塗られていました。
- また、これは凡例と呼べるか分かりませんが、屋敷名や町人名の書き出しの部分がその敷地の入口の部分というルールがあります。これがなかなか面白い決まりで、現代の地図にはないですし、切絵図を手に歩いてみると変わらず今も同じ向きに入口があるケースもあります。
⑧ 切絵図の種類
- さて、順番が前後したかもしれませんが、切絵図には4つの種類があります。登場した年代順に吉文字屋版、近吾堂版、尾張屋版、平野屋版となります。
- 一番目は吉文字屋版ですが、他より少し早く宝暦5(1755)年に登場しました。しかし、時期尚早で需要があまりなかったのか、8巻の刊行に留まり、未完に終わってしまいました。
- これを受け継いだのが近吾堂版で、37枚セットを完成させて広く使われました。
- この近吾堂版の成功を見て尾張屋版がさらに畳み掛けます。近吾堂版をベースに改良した商品を開発し、30枚揃いのセットを発行しました。地域のカバー率も高く、色彩豊かな尾張屋版切絵図は現在でも見やすいものとして評価を受けています。
- 最後に登場したのが平野屋版です。時期はペリー来航の直前くらいです。この切絵図は他とちょっと雰囲気が違って、今でいうところのメッシュ状に分割されて、縮尺や方位方角が統一された切絵図でした。隣接する地域とのつながりが分かりやすいなどの利点があり画期的でしたが、これまでの切絵図には一枚で描かれていた範囲が分割されてしまうなどの実用性が損なわれた部分もあり、当時の人には人気がでなかったそうです。
⑨ 地理学研究会での切絵図の活用
- 最後に、私達の活動を通して切絵図の活用について見ていきたいと思います。
- 私たちのサークルでは、江戸切絵図をはじめとした古地図全般を活用した巡検や勉強会を行ってきました。おもに渋谷にあるキャンパス周辺で古地図に興味をもっている会員が集まって、プリントアウトした古地図を手に、その特徴や凡例などを確認しながら歩いていきました。
- まずは、いまの國學院大學周辺や渋谷駅周辺は昔の地図中にどういう風に表現されていたのかというのを確認しました。大絵図の中には全然詳しいことは書いていないけど、切絵図を見てみると國學院大學の周辺は畑だと分かるねとか、近所の神社とかお寺さんはずっと昔から変わらない場所にあるんだねっていうのを確認しながら進めていきます。特に、身近な地域が出てくると関心を持って活動できますね。大絵図と切絵図では使われ方がどう違うのか、どっちが使いやすいのか歩きながらだとよくわかります。他にも、当時の名残はあるのかなとか探しながら歩いてみて、意外な発見をすることもあります。
- 例えば、渋谷から麻布に向けて歩いている途中で、有栖川宮記念公園の坂の上で、麻布警察署盛岡町交番というのを発見しました。感が鋭い会員が切絵図で当時の様子を確認してみると、ここは陸奥国盛岡藩主の南部美濃守がもっていた中屋敷があった場所でした。屋敷の敷地が宮家の土地となり、現在は公園となっていたのです。些細なことですが、切絵図を生かして江戸の名残を見つけることができました。他にも坂の名前や橋の名前に江戸の名残を感じることができ、江戸切絵図を活用した有意義な巡検になりました。
⑩ まとめ
- まとめに移ります。何と言っても切絵図の気軽に扱える点は大きな魅力です。歴史地理学という学問を意識せずとも、その入門にピッタリだと思います。きっと歴史地理学の面白さを知るきっかけになると思います。
- また江戸の人々の事情に合わせて、切絵図が発展してきたという背景を理解できたと思います。様々な種類があった切絵図の中で尾張屋版切絵図の色彩の豊かさや凡例の分かりやすさなどが高い評価を受けてきました。今日でも、表記の分かりやすさは変わることなく、切絵図の代表格として、雑誌などで取り上げられています。
- さて、今日の話を聞いて切絵図を手に出かけたくなったのではないでしょうか。今日のテーマにも挙げさせていただきました「豊かな表現」に魅力を感じながら、ぜひ江戸の名残を探してみてください。また、いろんな地域の切絵図を見比べて、お気に入りの一枚を見つけてみてください。
- 内容は以上になります。本日はありがとうございました。
(3)地理の会からのお知らせ
① 4月度巡検のご案内
② ジオ展出展について
◆SessionⅡ 懇親会
- 自由に飲食しながらの懇談を楽しみました。
- また空想地図カフェの“地理本の森”を自由に散策しました。