New

① ジオ巡検②を報告
② オンライン交流会「サロン地理」を報告
③ 桐生市巡検を報告
 
REPORT

会員の地理活動

ネット公開

1 東日本大震災での高速交通機関の補完関係と復興期における動向
2 公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり
3 海外地理紀行
(項目をクリックするとリンクします。)
 

YouTube公開

公益社団法人日本地理学会地理学のアウトリーチ研究グループYouTube動画ブロジェクトチームによる中高生むけ地理学紹介動画プロジェクトとして公開されました。
「【仕事で地理が生きる】公務員の仕事にも生きる地理のライフワーク」
(クリックするとリンクします。)
 

 本の出版

1「自然災害と大移住」(幻冬社ルネッサンス新書
2「地理マニアが教える旅とまち歩きの楽しみ方」(ベレ出版) 
3「みちびと紀行 街道を歩く一人旅」(Amazon
4 「新版 空の旅の自然学」(古今書院
5 「純じゃぱのえいご道中膝栗毛」(文芸社
(出版元をクリックすると紹介ページにリンクします。)
  
 


 
REPORT

活動予定

地理の好きな人々のための巡検及び講演会(外部及びメンバーによる)を開催しています。各行事はメンバー同士のネットワークを広げられる場としても喜ばれています。

 

2025年

4月20日(日)地理の会巡検23区シリーズ第20回「世田谷区その1」開催済
6月8日(日) 桐生市巡検 開催済
8月9日(土) オンライン交流会「サロン地理」開催済
10月25日(土) ジオ巡検②「神奈川・曽我丘陵にてジオ歩き!」開催済
12月21日(日) 地理の会巡検23区シリーズ第21回「板橋区」
2026年2月28日(土) 「地理系ブックカフェ空想地図の夕べ〜地理教育の現場から〜」
2026年5〜6月 地理の会巡検23区シリーズ「世田谷区その2」


 
活動報告

活動報告

過去の活動報告
2024年2023年2022年2021年2020年2019年2018年2017年巡検地一覧


 2025年

地理の会 ジオ巡検②
『相模・曽我丘陵〜地球の胎動を聴く雨のジオ歩き


 
テーマ
ジオ歩き2回目は、相模の曽我丘陵の国府津ー松田断層を訪れ、地殻変動の歴史を学びました。箱根火山の影響や、地殻変動と火山活動、河川侵食の視点から地形・地質を考察しました。
 
1.日時 2025年10月25日(日)10:35-15:02
  
2.講師 箱根ジオパーク推進室事務局次長 笠間講師(日本地質学会理事)
 参加者 8名 
  
3.巡検行程
約9.1kmの歩行、約4時間27分の移動時間、約185mの高低差(最高標高218m、最低標高33m) 
 
① スタート:JR御殿場線 上大井駅

②菊川支流沿い(所々に小露頭)

③山田盆地入口・地塁地溝地形

④メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物

⑤四季の里(昼食・足柄山地・富士山等の地形)

⑥獅子窪湧水

⑦了義寺

⑧めがね道経由、国府津・松田断層地形観察

⑨ゴール:JR御殿場線 相模金子駅
 
4.行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて

① 地理院の現在地図

② 地形図

 
③ 断面図
 
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」さらにクリックすると「地図を拡大できます」)
img_0798.png 地理院の現在地図 img_0799-edit.png 地形図 img_0800-edit.png 断面図
 
5.  巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生)
#2.jpg ①スタート:JR御殿場線 上大井駅上大井駅は小さな無人駅、ひょうたん駅としても知られています。現在の駅舎は1947年(昭23)の設置当時のままで地元の木材が使われています。御殿場線の下曽我駅と松田駅の間に駅がなかったため住民の請願により設置されました。 #4.jpg ①スタート:JR御殿場線 上大井駅上大井駅から見た曽我丘陵。手前のビルが目隠ししてしまっていますが、横に広がる森が、かの有名な国府津ー松田断層。だからこの上大井駅はフィリピン海プレート上にあり、森より向こうは北米プレートになります。二つの大きなプレートがまさにこの場所でせめぎ合っていることになります。地球の歯ぎしりが聴こえてきますか。 #5.jpg ①スタート:JR御殿場線 上大井駅駅前の上大井駅開設50年記念碑。だからこの記念碑は1997年のものとなりますね。この石材は真鶴の本小松石が使われています。本小松石は時間が経過するとポツポツの模様が浮かび上がってきます。 #6.jpg 途中、石井醸造の前を通ります。曽我丘陵の西側に広がる足柄平野には意外に酒蔵が多いとのこと。この石井醸造のほかにも井上酒造・中西酒造・瀬戸酒造・川西酒造さんがありますが、水は足柄平野のものを使っているのでは?ということでした。 #8.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)曽我丘陵の山ひだを水源とする菊川の流れ。足柄平野を形成した主要河川は酒匂川ですが、東部の菊川はそれに合流せず並走し森戸川となって太平洋に注ぎます。足柄平野内に分水嶺となる微高地、鴨宮台地・千代(ちよ)台地があったことが合流を妨げた理由です。鴨宮台地は酒匂川の削り残しと云われており侵蝕に抵抗する富士山の御殿場泥流堆積物でできています。 #10.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)六地蔵のならぶ康岳寺。石造物群もあります。往古、この界隈から箱根・足柄峠へと通じる古道があったと云われています。 #11.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)六地蔵のほかに二十三夜塔もあるそう。この曽我地区に3基が集中して遺されているとのことで、その背景には都市化しなかった、住民の信仰心がなお篤かったなどの理由があるのでしょうか。 #12.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)ジオ巡検には好ましい田舎の道を行きます。雨もまた良し! #13.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)菊川左岸の露頭を見あげます。比較的角の取れた堆積性の礫(れき)を見出します。写真の礫が堆積性である理由は、左岸の隆起にともない菊川が河床を掘り下げたかも知れずかつての菊川の河床であったということかも知れません。
南北に連なる長い屏風のような曽我丘陵にあって菊川はその壁を割って入ったような流れですが不思議なことに写真の左岸と対岸の右岸とでは岩質が違う。左岸側は10~30万年前に隆起した褶曲性のある曽我丘陵。右岸側は根岸山と呼ばれる12.5万年前より新しい、遅れて隆起してきたかつての酒匂川河床を含む丘陵。沢の両岸で大きな時代の懸隔があります。根岸山はかつての酒匂川の河床であったことから河岸段丘面を残しており頂稜部は緩傾斜な小平地を展開させていますし、丹沢山塊に嵌入した石英閃緑岩(トーナル岩)なども右岸からは出ます。(左岸からは出土しません)
#14.jpg ② 菊川支流沿い(所々に小露頭)色の黒い礫も交じる。箱根山の火山堆積物(玄武岩質の安山岩)などがある可能性があります。 #15.jpg ③ 山田盆地入口・地塁地溝地形菊川の上流部に闊達と広がった通称山田盆地。フィリピン海プレートの圧縮力に逆らえず地塁ー地溝地形と呼ばれる凸凹を形成している面白い地形で山田盆地はその凹部になります。この地塁ー地溝地形の典型で良く出てくるのが養老断層と養老山地の関係でそれに類する地形となります。写真遠くには元第一生命、現”未病”を推進するビオトピアのビルが見えますが、このビルも根岸山の頂稜に建てられています。 #17.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物かなり上がってきました。(株)FURUKAWAの大井町太陽光発電所です。発電所というよりは電気という作物ができる「畑」という方が相応しいような。”太陽光電気農園”という名称はいかがでしょうか。 #18.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物ここに(株)FURUKAWAさんのご好意で残されている火山灰の露頭があります。左下に向かって一本の線が走っていますが、それよりも上が、6.6万年前の火砕流堆積物です。かなり大きな礫も含まれますが大きさもまちまちです。細粒火山灰を含み淘汰も悪い状況です。箱根は足柄平野を隔てて”対岸”にあたりますが、ここまでやってきたということに驚きます。一本線の下は同じく6.6万年前の東京軽石層(降下軽石層)です。粒がそろっています。細粒火山灰に乏しい。全体的に淘汰が良いなどの特徴があります。白い軽石は流紋岩~デイサイト、黒い粒は玄武岩質の安山岩。
6.6万年前は日本も寒かった時期にあたりました。
右下にもう一本線が見えますがその下部は三浦軽石層で上2層よりさらに古く7.0万年前以前ということになります。なおテラスより上は富士山起因の関東ローム層で2~3万年前のもの。
#19.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物かなり正確な履歴が書かれていますが、各地の調査結果から類推できるそうです(なおC14 法はせいぜい5万年前までしかわからないそうです) #20.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物これが東京軽石層の石たち。右側黒いのが重く、玄武岩質の安山岩。左は流紋岩~デイサイト質の軽石。驚くことにいずれも箱根火山由来です。噴火は軽石の噴出でしたが、玄武岩質の安山岩は噴火に巻き込まれた火道や火口付近の岩石です。 #21.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物境目の拡大写真。礫の大きさがかなり違いますね。
実はここほど保存状態の良い露頭はないとのことです。いつまでも子供たちのために残したいですね。
#22.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物こちらは東京軽石層とその下位の三浦軽石層の境界。 #23.jpg ④ メガソーラー保存露頭・箱根火山火砕流堆積物すこし林道を登ると左側に小さな露頭が。これは関東ローム層。前述したが2~3万年前の富士山起因の火山灰。チョコレートに覆われたスポンジケーキのように植被に覆われていて本来の関東ロームの色ではない。堆積層などのスジがないことから、2~3万年前はすでにこの場所は陸地であったことがわかります。 #26.jpg ⑤ 四季の里(昼食・足柄山地・富士山等の地形)四季の里にやってきました。さてさてお昼にしましょう!雨はまだ降っています。 #27.jpg ⑤ 四季の里(昼食・足柄山地・富士山等の地形)四季の里では地元の新鮮なお野菜をたくさん売っていましたね。 #32.jpg 山に分け入ると了義寺の集落。山間部にありながら静かでたおやかな地形。地塁ー地溝地形の地溝にあたります。 #33.jpg ⑥ 獅子窪湧水この集落の奥に獅子窪の湧水がありました。ここもまた菊川の源流に当たります。不思議なのは頂稜にある三角点が220mほどで、この湧水が130mほど。標高差はわずか90m程であり、集水域も地形的に小さな谷ひとつと読めますが意外に水量は多く常水となっていること。かつての酒匂川の河床を形成していたことから、山体は堆積性の岩質で含水率が高いのかも知れません。 #34.jpg ⑥ 獅子窪湧水湧水ポイントは石垣が整然と積まれ、湧水ポイントは洞となっており人工的にアーチ形に仕上げられたとみられる天井部なども見て取れます。地元民の利用度も高いと思われ柄杓なども備わってしました。雨のせいか地元の人は誰もいませんでした。 #35.jpg ⑥ 獅子窪湧水清澄な水底には軽石の堆積が認められます。軽石層は透水性が高いので、この湧水の底面には軽石層以外の非透水層があるに違いありません。 #36.jpg 下ってきて山田盆地を見下ろします。足柄平野からひと山越えるとあるこの盆地は「天空の里」のようにもっと注目されてもいいような気がしました。 #37.jpg ⑦ 了義寺了義寺の略歴です。足利基氏が創建した寺で知られます。 #38.jpg ⑦ 了義寺了義寺の本堂。由緒あるお寺さんらしい佇まいです。 #39.jpg ⑦ 了義寺了義寺の堂宇に向かって右側の遊水池にある露頭。分厚く堆積した関東ローム層です。関東ロームも場所によっては10m近くになる場所もあるとのことです。横に軽石層が走っているのがよく観察できます。岩質としては泥岩になるとのことですが、火山灰のような微粒子が固着成分によって固まっているのでいったん崩れると脆いとの説明を受けました。
帰りに住職さんとすれ違いましたが「昔から滔々とわいている湧水。これがあったからここに寺を建てたんじゃなかろうか。もう430年以上の歴史がある寺になった。以前と比べると湧水量は少し落ちたけれどな。上に見える小屋は貯水ためのものでポンプなどで揚げているわけじゃない」という説明を受けました。
#43.jpg ⑧ めがね道経由、国府津・松田断層地形観察曽我丘陵の北端、根岸山を穿って作られた「めがねみち」。二つないのにどうして「めがね」と思ったこと、隧道なのにその名がなぜ付けられていないのか?と思ったこと、山が高くないのにどうして隧道にしたのか(切通しにして橋をかければ?)と思ったこと。どうでもいい?と疑問を感じながら通過すると・・・・ #44.jpg ⑧ めがね道経由、国府津・松田断層地形観察雨にむせぶ足柄平野の絶景?が見えてきました。遠くの方には狩川が作った扇状地がぼんやり見えました。

 
6.参加者の感想
 
・とても勉強になりましたし楽しかったです。山でよく崖など見ますが、立ち止まって観察して、教えて頂くと、ぜんぜん違うなと思いました。資料を見返して思い出しています。
 
・ややハードなコースでしたが、脱落することなく最後まで楽しく回ることができました。以下、感想です。事前に資料を一読していましたので、各所での講師の説明が理解しやすかったです。参加者からのさまざまな質問への回答が、実に深く広く分かりやすい内容でした。
 
・当日の説明もすばらしく、充実した巡検になりました。雨は残念でしたが、静かで落ち着いたジオウォークになりました。箱根東京テフラの保存露頭など立派なものと思いますが、箱根ジオパークのジオサイトに指定されていないのが不思議です。
 
・地質にはまったく素人の私にも、とてもわかりやすく説明していただき、良かったです。貴重な露頭の数々、何十万年も遡ってのお話し、素朴にイメージを楽しみました。学者の先生によくありがちな「この露頭を残さねばならない!」との気負いはなく、変動していく自然に素直に応じられてる好印象を受けました。
 
・曽我丘陵ジオ歩き、雨天で眺望を楽しむことができなかったのは残念でしたが、実行していただいたことに感謝申し上げます。地溝・地塁の地形と意識して、盆地地形を見るのは初めてでした。「きらめきの丘おおい」の箱根東京テフラの地層の傾きや火山噴火のジェットによる噴煙の到達高度など、教えていただいたことを自分なりに調べて整理していきたいと思っております。
 
・地形、地質の歴史的経過など、不勉強ですが 、大変関心があります。お話の内容は難しかったですが、プレートの動き、断層、火山活動など、地域別、時代別にどのような動きがあったのか、今後とも関心を持ち続けていきたいと思う大きなきっかけとなった御案内でした。保存断層や湧水なども大変魅力的かつ貴重なものと思いました。目に見える風景もこうした知識があると違って見えるものではないかと羨ましくも思います。
 

オンライン交流会「サロン地理」 

1.  日時:2025年8月9日(土)18:00〜20:00
2.  開催方法:Zoomミーテイングを使用したオンライン
3.  出席者:25名
4.  内容:

 
気兼ねなく自由で身近な地理の話題をサロン風に語りあうオンライン会合を行いました。
(スライド:手動でスライドを送るか⚪︎をクリックして閲覧してください。また、画像をクリックすると画像を拡大または動画再生します。
ハイライト:文字のハイライト部をクリックするとリンク先を表示します。)
 
1 地方会員からの地理の話題
1-1「哈爾濱(ハルビン)とシベリア鉄道」
 
今年の6月に中華人民共和国の旧満洲地方に旅行したのですが、それに関連してお話しいたします。
 
img20250918181149336698.png この表紙のページに地図が載っています。ロシア語の地図ですが、赤い線でシベリア鉄道が描かれています。たどってみても哈爾濱を通っていませんが、紫色の線が通っています。実は歴史的にはこちらが先に開通して、哈爾濱を通るのがシベリア鉄道だったということはあまり知られていません。 img20250918181200898316.png これは古いガイドブック(朝鮮満州支那案内、1919)の一部です。昔の鉄橋(旧松花江鉄路大橋、全長1027m、1901 年完成)がシベリア鉄道の一部分だったのです。中央大街(旧キタイスカヤ街)から15分ぐらい歩いたところにあります。今はとなりに新しい橋が架かり、古い橋は歩道橋として使われています。これはその橋の手前のところから写した写真です。 img20250918181211649730.png 近寄ってみますと、鉄橋は土手より数メートル高い位置にかかっていて、たもとの階段で登ることができます。また南側は中東鉄路公園になっており、博物館の正面には蒸気機関車「黄継光号」が保存してありました。 img20250918181219791896.png 橋の両脇の赤い部分は二輪車が通行できるようになっています。またすぐ東(下手)側に現在の鉄道橋(複線✕2)が架けられています。レール間隔(軌間)が新幹線などの標準軌(4ft 8 1⁄2 in = 1435mm)より広いように見えます。じつは開業当初はシベリア鉄道と同じ広軌(5ft = 1524mm)で線路は敷かれていました。満洲国時代以降は標準軌に改められ2014 年まで使用されていましたが、敢えてロシア時代を再現しているのかもしれません。この後、話の中でいくつか出てくるのですけれど、線路の幅は国によって違っています。あるいは戦略的な意味を持っているものですから、多分ここに広い5フィートゲージを示しているのは、最初にできたときはロシアが作りました、ということを表現しているのでしょうか。 img20250921162437212078.png この地図で鉄橋を通る路線は、1901年には東清鉄道と呼ばれており、モスクワとウラジオストクとを結ぶロシアのシベリア鉄道は当時建設中でした。現在はハバロフスクを経由してアムール川の北側を走行していますが、この区間で難工事に直面し、特にハバロフスクのすぐ西側でアムール川を渡る長い鉄橋の建設に行き詰まっていたのです。日清戦争後の三国干渉で遼東半島を日本から返還させた見返りとして、満洲北部の鉄道敷設権を清国に認めさせということがあって、ロシアとしては、この工事を後回しにして、チタ付近から哈爾濱を通ってウラジオストクに至る短絡線として建設したのが東清鉄道であり、名目上は露清合弁ですが清国は経営に直接関与できませんでした。シベリア鉄道と直通できるように線路幅は広軌(5ft = 1524mm)で敷設されました。東清鉄道は1903年に全通しましたが、バイカル湖岸線が未成のため渡船連絡を要しており、日露戦争中の厳冬期には凍結した湖上に線路を敷く試みも行われましたが失敗に終わりました。結局モスクワ~哈爾濱~ウラジオストクが直通列車で結ばれたのは1905年のことであり、この間アムール線の工事は中断されたままでした。 img20250921160957746918.png ここからは私がいろいろ集めている古い時刻表や資料をお見せしようと思います。琵琶湖疏水建設で知られる田邊朔郎が 1900 年に訪欧したときの旅行日記が残っています。シベリア鉄道が建設中で途切れているために、浦塩斯徳(ウラジオストク)からハバロフクスクまでは鉄道、そこから黒龍江(アムール川)を蒸気船で遡ったが浅瀬で度々運航不能になるなどして日数を費やしました。再度鉄道の始発駅ストレテンスクでも乗車予定の列車が半日遅れて難行苦行でイルクーツクへ向かいましたが、バイカル湖岸を通る鉄道がまだできていませんので、湖を船で渡る必要もあります。途中でいろいろなトラブルに巻き込まれたりして、ウラジオストクからモスクワまで44日間もかかったようです。この地図には東進鉄道が一部開通で描かれており、大興安嶺を越えるところが予定線になっています。 img20250921161006401887.png 時代が過ぎて1909年のクック大陸時刻表です。モスクワからウラジオストクまで直通列車が走っています。哈爾濱の松花江鉄橋をこの直通列車が渡っていました。 img20250921161014320571.png 1925 年クック大陸時刻表は、 1916 年にアムール線が完成して現在のシベリア鉄道が全通し、翌 1917 年のロシア革命から内戦を経てソ連が成立し、東清鉄道が 1920 年以降中東鉄道と称していた時代のものです。ところが哈爾濱経由が 10 日目に到着するのに対してハバロフスク経由は 12 日目の到着という有様で、いくら遠回りだからといっても遅すぎるのですが、これは内戦中に鉄道施設が破壊され一部が不通になっていた影響と思われます。したがってこの時点では従来のハルビン経由が優位ですが、復旧作業が進むとアムール線の所要時間は短縮されていき、中東鉄道経由のウラジオストク直通ルートはその終焉を迎えることになります。 img20250921161022235008.png 1932 年の満洲国建国により、ソ・満合弁事業となり中東鉄道から改称された北満鉄路は、交渉の末 1935 年満洲国に売却されました。その後、翌 1936 年までに哈爾濱~新京(長春)、満洲里~哈爾濱~綏芬河の全路線は標準軌(4ft 8 1⁄2 in = 1435mm)に改められ、南満洲鉄道と直通できるようになりましたが、同時にそれは広軌(5ft = 1524mm)のシベリア鉄道とは分断されることを意味したのです。
1937 年のクック大陸時刻表ではモスクワ Severnii 駅(現在のヤロスラヴリ駅)~ハバロフスク~ウラジオストク行は週 2 往復ですが、更に速度を増して 9 日目に到着するダイヤになっています。
img20250921161032117923.png 1959 年のクック大陸時刻表にはモスクワ~ハバロフスクが毎日 1 往復、北京行は週 4 往復、平壌行は週 2 往復の運行で、いずれも 8 日後の到着となっており、北京と平壌へ向かうものが哈爾濱や松花江鉄橋を通っていました。戦後になると、中国(中華人民共和国)がロシア(ソ連)と仲良くしている時期ですので、やはり直通列車を走らせたいとなりました。1954 年にモスクワ~北京直通列車の運行が開始されました。満洲里、哈爾濱、瀋陽、天津を経由するもので、ソ連側国境のオトポール(現ザバイカリスク)で客車の台車交換をすることにより、軌間の異なる路線の直通を可能にし、同年モスクワ~平壌も開設されました。現在では、最初にご覧いただいた哈爾濱の鉄橋のすぐ隣の鉄橋をこの列車は走っていることになるのですが、あまり知られていないと思いお話をいたしました。

 
1-2「 仙台赴任 地理の思い出」 
 
私の仙台の赴任時の地理の思い出ということでお話しいたします。
 
テーマ1:この地名読めますか?かけますか?私が仙台に赴任遭遇した地名
 
img_0502-edit_20250925135431534.png それでは始めます。私も赴任して、どうしても地名が読めなかったっていうのがありました。

ではまず①です。
「たいわよしおか」→「大和吉岡」
私が仙台に着任して2週間ぐらい、お客様からの電話を応対した時でした。『「たいわよしおか」のどこどこの見積もりをお願いします。』と言われて、これは、どういうふうに書くのかと思ってびっくりしてお客様に聞きに行きました。「大和吉岡」って書きます。これにはびっくりしました。ここは、仙台から北の方で大崎市の手前に位置しています。昔は鉄道があったそうですが、今は陸の孤島になっています。私は手前の富谷ですが路線バスで行ったことはあります。しかしトヨタの工場があるみたいで、そういった意味では、町としては潤っていると感じがします。

次に②です。
「大白区」→「タイハクク」
現場の住所を見たら、これはどうやって読むのかなと。私は、読めなかったです。
img20250925135608381697.jpg 次に③です。
「閖上」→「ユリアゲ」
ハゼ釣りに誘われてその周辺の地図を見た時、これは読めませんでした。地図で見させてもらっても、『これ何?』っていう感じでした。名取市の名取川の近くです。朝市も有名です。写真の1枚目ですが、手前から閖上、名取川で、一番奥の盛り上がった所が藤塚の避難の丘です。この辺は2011年の震災・津波の被害のあったところです。
img20250925135653573731.jpg 2枚目の写真は、閖上湊神社です。 img20250925135758059850.jpg 次に④です。
「秋保」→「アキウ」
温泉で有名ですが、「アキヤス」と呼んでしまいそうですけど、この辺の秋保っていうのは先ほど申し上げた太白区に属する所です。

次に⑤です。
「愛子」→「アヤシ」
普通に読んで良いのかと迷いました。仙山線の駅に由来を説明した案内板がありました。子愛「こあやし」観音様の名称から「あやし」の語を「愛子」の文字に入れ替えて「アヤシ」と見られているとのことです。ここは、青葉区に属しています。
img20250925135906485438.jpg 次に⑥です。
「涌谷」→「ワクヤ」
城跡・JRの駅名です。間違えて読んでしまいました。これは、城跡の写真です。地元の人に連れて行ってもらって、桜を見させてもらいました。
img20250925135938883405.jpg もう1枚の写真は、案内板ですが、城跡が史跡として残っていると説明されています。 img20250925140048470931.jpg 次に⑦です。
「小牛田」→「コゴタ」「前谷地」→「マエヤチ」
なんとなく読めそうで難しいです。小牛田は、東北本線・石巻線・陸羽東線の接続駅です。仙台から通勤圏になっていると地元の人から聞きました。前谷地駅は、石巻線の途中駅で、気仙沼線の始発駅です。駅には、駅名由来の案内板があり、この地はかつて湿地だったようです。(写真)

次に⑧です。
「通町」→「トオリチョウ」 「二十人町」→「ニジュウニンマチ」
これは、「チョウ」なのか「マチ」なのか迷いました。

こういう形で読めない地名に遭遇しました。
 
テーマ2:JR気仙沼線BRTの写真と動画
img_0501-edit_20250925140149095.png テーマの気仙沼のBRTですけども、仙台に来た以上は行かなければと思っていました。志津川の近くの三陸町の役場が被災して庁舎を残すという話を聞いたので、2月頃に行ってきました。 img20250925140415785529.jpg ① BRT柳津駅BRTの始発駅です。鉄道の跡の専用ルートは、休止され志津川まではそのまま普通の一般道を走っていていました。 img20250925140506153146.jpg ② BRT志津川駅20分ぐらい乗って、志津川駅に着きました。駅は再建されています。震災で被災を受けた人の体験ビデオを見て、その後、食事をしました。 img20250925143648674464.jpg ③ 旧志津川駅鉄道駅だった旧志津川駅です。こういう形になっておりました。震災の後、全く何も手づかずの感じでした。 img20250925144000437687.jpg これをみて、「ぐっと」きました。今でもまだ倒れそうな感じがしますけども、これを保つもまた大変だとは思いますが、残しておいた方がいいかなと思いました。 brt1.png ⑤ JR気仙沼線BRTその後、旧鉄道線の専用ルートに乗ることができました。動画を撮ってきました。 img20250925144603423541.jpg ⑥ BRT大谷海岸駅ここも志津川駅と同じで再建されて綺麗になっています。 img20250925144836676719.jpg ⑦ 大谷海岸風景駅近くに海があります。この風景ですけど、震災前には鉄道路線が海辺近くにあったみたいです。 img20250925145033822383.jpg ⑧ 前谷地駅今回は時間もなかったので、直通バスで、前谷地駅まで戻りました。 brt2.png ⑨ JR気仙沼線BRTその後、5月に気仙沼近くのJR気仙沼線BRTを乗る機会がありました。JR気仙沼駅に到着する動画を撮ってきました。 img20250925145547130221.jpg ⑪ 気仙沼駅駅前は閑散としていました。 img20250925145703377068.jpg ⑫ 徳仙丈山のツツジ今年河北新聞の記事で気仙沼のツツジ写真がとてもきれいだったので行ってきました。
後徳仙丈山のHP(https://kesennuma-kanko.jp/tokusenjo/)
img20250925150006974736.jpg ⑬ JR気仙沼線BRT南気仙沼駅 img20250925150103424004.jpg ⑭ 気仙沼駅、車両 img20250925150153565205.jpg ⑮ 千厩駅、車両 img20250925150235683811.jpg ⑯ 一ノ関駅、車両 img20250925150326801258.jpg ⑰ 一ノ関駅

 
仙台は、まだまだ行けていないところがありましたが、ほんとにいいところですので是非足を運んでください。
 ご精聽ありがとうございました!
 
1-3「私の地理修行   ー 「ご縁」に支えられて」
 
「地理というご縁に支えられて」ということでお話しさせていただきたいと思います。
 
(1)月刊「地理」との出会い
現在も、購読会員ですが、月刊「地理」の「ジオグラファーズ・アイ」(投稿欄)で作文練習目的に投稿したのが、最初の地理との出会いでした。
 
(2)福井県地理学会との出会い
福井県に帰省しまして、図書館に就職しました。月刊「地理」への投稿が切掛になって、当時の図書館館長の紹介と福井県内教員の図書館訪問による入会斡旋で、福井県地理学会に入会しました。現在は、「北陸三県地学・地理学連合大会」に参加及び紀要執筆を行っています。
 
(3)社会人の地理クラブ「地理の会」との出会い・会報
出会いというものは、突然なのですが、本会の「地理の会」の会長と職場の図書館でお会いしてお話をしまして入会しました。会報執筆ほか巡検・例会に参加しました。しかし、会報の最終号は、書くことができなかったのが心残りです。日本地理学会「地理学のアウトリサーチ」動画作成依頼を「地理の会」の会員の方から紹介を受けて作成しました。(地理の会HPの会員活動のYouTube公開を参照)最近は自己紹介代わりに使っています。「地理学は楽しいのだよ」っていうことを中高生向けで、また、丁度、コロナ禍の時で「勉強の楽しさというのを教えてください」ということで動画を作った次第です。
 
(4)福井市木田公民館(在住地区)での活動
現在、私住んでいる春日は福井市南部の木田という小学校区・公民館地区に該当します。木田公民館の館長が、以前の上司で、公民館に行くと、仕事を仰せつかって、結局、交流部会での地区の歴史遺産紹介(フィールドワーク形式・PTA親子のつどい)などを行なっています。さらに、広報部会の全戸配布『きだより』の「木田の昔ばなし」執筆(年2回)も行なっています。
木田の昔ばなしの紹介として(おいしい福井の水の産地 木田地区の水道源井)を説明しました。
 
また、『木田地区誌』編纂を只今、構想中です。(「地理編」を頼まれています。)
 
以上が、私の現在でございます。また今後も末長く、どこまで地理の活動ができるか分かりませんけど、よろしくお願いいたします。
 
2 コーヒー・ブレーク
2024年地理の会活動クイズ
 
3  自由で身近な地理の話題 
 
1-1「利根川東遷について」 
かつて利根川は東京(江戸)湾に流れていましたが、現在では東に向きを変え鹿島灘(銚子)に河口を移しています。東に付け替えたので「東遷」と言われていますが、「そもそも誰かが意図して始めたことだったのだろうか?」疑問に思いましたので調べてみました。利根川東遷の経緯については数多くの著書、論文が発表されていて、それらから知見を一つ得たので報告します。
 
img20250923135355802718.png 東遷後(現在)の利根川真ん中の太い線が、現在の関東平野を流れる利根川です。群馬県の水上の山が水源で、流路延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位です。関東平野を流れ銚子まで流れている大きな川です。栗橋の先で二股に分かれた川が江戸川で東京湾に注いでいます。 img20250923135538292721.png 東遷の目的これは、国土交通省のホームページの資料ですが、東遷の目的として4つ挙げています。多くの研究者もこの4つを支持しています。① 江戸を水害から守る ② 水田の開発 ③ 東北との船をつかった物品の売買 ④ 江戸城を守るための大きな堀(伊達藩に対して) img20250923135558526672.png 国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所の説明江戸時代に少しずつ東へと流れを移し変える大工事が、約60年間(1594年の会の川締切から1654年の赤堀川拡幅までを指す。)にわたって行われました。これを東遷(とうせん・東へ移すこと)と言います。 img20250923135617739280.png 一般社団法人東京建設業協会の説明江戸幕府が60年かけ瀬替え開削して、利根川の東遷・舟運発達・新田開発で江戸繁栄に貢献しました。 img20250923135633300113.png 利根川東遷の各工事「黒い四角」が締切り工事で、「路線」みたいなのが新しく開削したところです。川の流れを東に移すことをしています。東遷工事では、1594年の会の川締切、1621年の新川通り開削、赤堀川開削が主要な出来事です。 img20250923135704012081.png 各工事の実態1)会の川締切り
締め切っても、利根川本流ではないので、川の流れの影響は大きくはなかった。
2)新川通開削、赤堀川開削
新川通開削、赤堀川開削も幸手・栗橋地域の水害対策であった。また、赤堀川が通水したのは1654年であるが、川幅が狭く利根川の本流とは言えなかった。
img20250923135721115273.png 足尾銅山鉱毒事件と江戸川棒出し1890年、足尾銅山の鉱毒は社会問題となっていたが、この年の大洪水で大きな被害を出した。1893年、江戸川棒出しの強化が行われた。 img20250923135738228893.png 江戸川棒出しの強化・・東遷の確定明治政府は鉱毒水が江戸川を下り、東京府下に氾濫することを恐れ、棒出しを強化しながら渡良瀬川河口(利根川への合流部)を拡幅して利根川の水が逆流しやすいようにした(東遷の完結)。 img20250923135750671518.png 江戸川流頭部の航空写真利根川と江戸川が枝分かれしているところです。関宿水関門によって江戸川に流れる水量を調整しています。 img20250923135808545976.png 小出博博士の著書「日本の河川--自然史と社会史--」1970.9.30 東京大学出版会
利根川の東遷をはじめる最初から、現在のように利根本川を完全に銚子に落とす構想があったかどうか。
img20250923135821014529.png 研究者、団体による見解のまとめ(1) img20250923135830430634.png 研究者、団体による見解のまとめ(2)

 
以上、まとめると
 
利根川東遷は徳川幕府により1594年から60年かけて行われたとの説が有力だが(現国土交通省も採用)、異説があることが紹介された。その異説とは、「東遷」を決定づけたのは明治政府による工事(1893年にかけての江戸川棒出しの強化)で、理由は足尾銅山からの汚染水が東京府に流れるのを恐れたためである。公言がはばかられたので、徳川幕府説を創作した。(参考文献:東京農業大学 小出博教授「利根川と淀川」1975年1月中公新書、他)私も、当初から一貫した目的・計画のもとに行われたものではなく、その時代の社会状況または技術水準に従い、試行錯誤しながら進められ、「結果的に現在の水路となったと考えている」とする説に従いたいと思っております。
 
 
1-2「シルクロードの旅、トルコ・ギリシャ・北マケドニア・アルバニア編(バルカン紀行報告)」 
 
シルクロードをたどる旅のトルコ、ギリシャ、北マケドニア、アルバニア編ということでお話しします。
 
img20250923143445428546.png 全体地図シルクロードをたどる旅を行なっているグループがあり、10年以上前から中国の長安を起点に年1回のペースで進めてきています。私が参加したのは2022年ウズベキスタンからで、次の年の2023年がイラン、それから昨年の2024年がトルコのイスタンブールまで行きました。今年、2025年はイスタンブールからアルバニアまで行きました。 img20250923143459749703.png 今回の行程今回の行程ですが、イスタンブールから、ギリシャの北部と北マケドニアを通って、アルバニアに行きました。今回はエグナティア街道という紀元前2世紀頃できた街道、これはローマ時代のイスタンブール、当時のコンスタンチノープルとローマを結ぶ主要な街道だったのですが、ほぼそれに沿った旅でした。 img20250923143509406399.png 訪問国の概要図を参考にしてください。この狭い地域に民族・言語・宗教など細かく分かれていることがわかります。1人当たりのGDPでギリシャがトルコよりも多いのですが、トルコからギリシャに入ると途端に貧しいという印象を受けました。GDPよりも財政破綻したインパクトの方が影響しているのかも知れません。 img20250923143518642669.png 4カ国の歴史この地域は一部の例外を除き、全体がマケドニア、ローマ帝国、東ローマ帝国、さらにオスマントルコといった大国の一部でした。オスマントルコが衰退・崩壊後、4カ国がそれぞれ独自の道を歩むようになりました。 img20250923143535483831.png イスタンブール黒海とマルマラ海の間のポスポロラス海峡を境にアジア側とヨーロッパ側にまたがった一つの市で、人口は約1,500万です。ヨーロッパ側は金角湾をはさんで、南側が旧市街、北側が新市街となっています。東ローマの首都だったのが、1453年にオスマントルコの帝国の首都になり、オスマントルコ崩壊後トルコ共和国の首都はアンカラになりましたが引き続き最大の都市になっています。ここでは歴史遺跡を非常に多く見ることができます。 img20250923143545753727.png イスタンブールの市内観光海に突き出た半島の丘陵地になっている旧市街地には、トプカプ宮殿などの名前の聞いたことがある観光地が多くあります。 img20250923143556953749.png アヤソフィアキリスト教とイスラム教が混在している建物などが多く、代表例としてアヤソフィアを紹介します。元々、東ローマが建てたキリスト教正教会の大聖堂だったのですが、オスマントルコに支配されるようになるとイスラム教のモスクになり、そのときにキリスト教時代からあった壁画などがすべて漆喰で塗りつぶされました。1923年にオスマントルコからトルコ共和国になると、昔の歴史を蘇らせようということで漆喰を全部剥がして博物館にしました。ところが、現在のエルドアン大統領が、イスラム回帰からまたイスラムのモスクに戻しました。漆喰塗りは行わなかったのですが、キリスト教関係の壁画などにはカーテンをかけて見えないようにしました。 img20250923143606126821.png トルコからギリシャへギリシャの国境近くのエディルネっという所からギリシャに入りました。 img20250923143619029234.png トルコからギリシャへ国境通過国境では写真を撮ってはいけないって言われたのですが、グーグルアースでは、この国境地帯を見ることができます。両国の国境事務所の間に約500メートルの緩衝地帯がありました。いろいろな手続きがあり、通過するのに2時間ぐらい要しました。 img20250923143649963944.png 旧エグナティア街道軍隊や物資の移動のために、締め固められた砂利と砂の層の上に敷かれ幅広い石畳の路面構造になっていて、耐久性や排水性に富んでいたそうです。1か所だけ、旧街道跡が残っているところがありました。そばにトラヤヌポリ遺跡があって温泉が出たそうです。 img20250923143700064149.png カヴァラとフィリポイ遺跡アレクサンドロポリから西へ移動し、カヴァラという水道橋がある所に泊り、フィリポイ遺跡に行きました。 img20250923143712871448.png フィリポイ遺跡アレキサンダー大王の父であるマケドニアの国王、フィリッポス2世が造った都市跡です。非常に広いところで、ローマ植民地時代からビザンツ時代までの遺跡が残っていたのですが、地震・移民族の侵攻などで放置していたそうです。2016年にはユネスコの世界遺産に登録されました。円形劇場・公共広場(フォーラム)があります。 img20250923143729868473.png カヴァラからテッサロニキへここはギリシャ第2の都市で、結構大きな町でした。近くにペラ遺跡がありました。 img20250923143740141305.png テッサロニキギリシャ第2の都市として人口32万、都市圏79万です。この写真が町の中心部、写真左下が広場(フォーラム)で、ローマ時代から残っていてアゴラと言われており、150m X 100mぐらいの広さのところです。 img20250923143752873810.png テッサロニキのメトロ2024年11月に完成した地下鉄です。掘っているうちにいろんな遺跡が出てきて、最初の地下8mの予定だった路線を、遺跡の下、地下31メートルに変更し、それにより開業が延び延びになりました。右上の写真のように遺跡の横をエスカレーターで駅に下るところもあります。電車は、無人で運転されています。日本の日立が車両及び運行保守を担っています。中央の下の写真が車両の先頭部ですが運転台がありません。5分おきぐらいに電車が来て、あっという間に最高時速80キロになります。エレベーターに乗るような感じでした。 img20250923143816113244.png ギリシャから北マケドニア1957年に畑の下から発見されたペラ遺跡で、実はアレキサンダー大王の生地ともいわれています。当時はここが港だったそうですが、今は海から30キロの奥地にあります。2000年ぐらいの間に、土砂で埋まったのか、地殻変動があったのかわかりません。 img20250923143829708978.png アレクサンダー大王アレキサンダー大王は、ペラで生まれ王位継承後30歳までの10年間でインド北西まで征服しました。統治とか政治文化吸収も天才的で、東洋とインドとギリシャの文化を融合させたヘレニズム文化は良く知られています。熱病にかかり32歳で死亡しています。あっという間に大帝国を築いて居なくなるっていうことでした。 img20250923143847468927.png 北マケドニアここは実は面白い歴史があります。オスマントルコから開放され、ユーゴスラビアに組み込まれました。ナチスに占領後、ユーゴスラビアに戻ったのですが、チトー大統領が亡くなってから、ユーゴの統治力が弱くなり、マケドニア共和国として独立しました。ところが、旧マケドニアというのはかなりの部分が今のギリシャ領内であるため、マケドニアという国名を用いることにギリシャが大反対しました。それでずっと揉めていましたがNATOやEUに参加するにあたり、そんな国名で隣国と争っていてはダメだということで、国名を北マケドニア共和国に2019年に変えました。 img20250923143910166230.png アルバニアへ1912年オスマン帝国から独立し、アルバニア王国になりましだが、間もなくイタリアに併合され、さらにナチスドイツに占領されました。戦後1946年、本来ならユーゴスラビアに入っても良い地域だったのですが、権力を握ったホッジャという独裁者が、ユーゴのチトーの考えには合わず、ユーゴには入りませんでした。ホッジャはスターリン主義だったので、ソ連がフルシチョフに代わるとソ連とも断交、その後中国と付き合っていたのですが、米国のニクソンが中国に行って、アメリカと親しくなったので、今度は中国とも断交し、鎖国状態が続きました。1985年にホッジャが亡くなって、1992年に民主化したアルバニア共和国となりました。その後、NATOに入り、今EU加盟の交渉をしています。アルバニアは国境からバスで入りましたが、かつて走っていた鉄道は3年ぐらい前から運休しています。理由は補修できないからとのことです。新たな鉄道の建設も行われていましたが、ここも、かなり貧しい国ではないかと思いました。 img20250923143920991151.png アルバニアの首都ティラナへアルバニアの首都のティラナですが、社会主義共和国独特の広い広場があります。赤の広場とか天安門広場を真似したと思われます。この周りには、政府の機関・国立図書館、今回宿泊したインターナショナルホテルがあります。右上の写真のトーチカ(1970年代の独裁政権下で作られた防空壕)が国中に3000ぐらいあるとのことです。中を見物できるものもありました。 img20250923143939557103.png デュレスから帰国の途へティラナから最後のデュレスに行きました。ここは、アドリア海に面して、かつてのヴェネチア共和国の版図で、この時代の城壁・闘技場が残っていました。ティラナ国際空港からイスタンブールを経由して東京に戻りました。 img20250923143950677095.png 私たちは結構危ないところに行っていましたこの赤色が活断層、それから青色がプレートの境界です。とにかくこの星印で示しているようにトルコは地震が多いです。「今度はこの辺で起きるだろう」と言われてもおかしくない、結構危ないところに行っていたようです。
以上で終わります。ありがとうございました。
 
4  2025年活動報告と予定
 
5 質疑応答・雑談タイム

桐生市巡検

1.日程    2025年6月8日(日)11:00
 
2.テーマ   織物の街『織都「桐生」』の成り立ちと現在~ノスタルジックな街並みを巡る
 
3.コース

① 東武新桐生駅またはJR桐生駅から「観光情報センター(シルクル)」へ。11:00集合
② 観光情報センター(シルクル)11:00発(現地ガイドにより重伝建・新町地区等巡検)~桐生天満宮12:30頃到着
③ 桐生天満宮近くの「世辻の斎嘉」(旧織物工場の母屋)2階にて昼食
④ 昼食後、地理の会からの説明と、店主からの説明
⑤ 解散(電動コミュニティバス「MAYU」で市内移動又はコミュニティバスで桐生駅・新桐生駅等へ)
⑥ 上記以降は個人巡検(後半は各自でテーマを見つけて歩いてください)
  a)繊維産業を学ぶ → 織物参考館、桐生織物記念館などを徒歩巡検
  b)建築物を学ぶ  → 桐生倶楽部、上毛電鉄西桐生駅、群馬大学同窓記念会館など
  c)美術を楽しむ  → 大川美術館(松本俊介のコレクションで有名な美術館)
  d)伊勢崎に行く  → 伊勢崎市に足を延ばし自主巡検
  (JR両毛線で伊勢崎駅:いせさき明治館・相川考古館など市街地巡検、または境町の繭取引、町家、宿場遺構歩き)
  e)ローカル鉄道を楽しむ → 西桐生駅から上毛電鉄で前橋方面へ、桐生駅からわたらせ渓谷鉄道で足尾方面へ
 
4. 巡検写真(写真は、10秒毎の自動再生です。)

img20250705165159622424.jpg ①シルクルにおける
ガイドによる全体説明
img20250705165209554354.jpg ②有鄰館
(旧味噌・醤油醸造所「矢野家」)
img20250705165216535290.jpg ③矢野園
(1717年に近江商人が創業した店舗
:現在はカフェ・銘茶店)
img20250705165224756281.jpg ④ノコギリ屋根の旧織物工場 img20250705165326114720.jpg ⑤桐生天満宮 img20250705165334146549.jpg ⑥桐生天満宮における
ガイドによる説明
img20250705165341949509.jpg ⑦世辻の斎嘉(明治5年に創業した
旧斎嘉織物の母屋)
img20250705165352329337.jpg ⑧世辻の斎嘉内における
運営者による説明
img20250705165400859831.jpg ⑨世辻の斎嘉前から運行されている
低速電動循環バス(MAYU)

 
5.桐生市のプロフィール
・奈良時代から始まったと言われる桐生の絹織物は、江戸時代以降「西の西陣、東の桐生」と称され、その一大産地として発展しました。
・今回巡る「新町地区」は、慶長年間(1600年代初頭)に周辺農村からの移住者を募って形成された人工都市で、市の中心街となっていました。
最盛時900を越えた織物産業の事業者数(組合登録事業者数)も今は100を切っていますが、街のそこかしこに長い繁栄を伝える工場や蔵、事務所などの建築物が残っており、近代化遺産の宝庫として、今では観光スポットとなっています。とりわけ、「新町地区」には、織物工場、織物問屋、商店、銭湯、醸造所など多くの有形文化財が残っています。
・桐生市の人口は減少傾向にあり、昨年10万人を割り、群馬県内では5番目ですが、高崎、前橋に次ぐ都市の位置づけにある太田(3位・22万人)、伊勢崎(4位・21万人)との差が開いています。
輸送用産業や機械・金属産業を中心にした順調な産業立地によって発展した両市に対して、桐生は歴史文化遺産を核とした観光を軸とした街づくりをめざして進んでいるように思われます。
・足尾山塊の山々に囲まれ、平野への出口に当たる桐生は渡良瀬川と桐生川が流れる水と緑に恵まれた渓口集落(谷口集落)であり、地理的関心の高まる街です。東武鉄道(新桐生駅)、JR両毛線・わたらせ渓谷鉄道(桐生駅)、上毛電鉄(西桐生駅)と様々な鉄道が交差する街でもあります。
 
桐生巡検補足説明*(クリックすると資料が見れます。)
 

地理の会巡検23区シリーズ第20回「世田谷区その1」


テーマ
「近郊農村から住宅市街地へー土地利用の変遷と現況」
世田谷区の地域は、江戸時代には近郊農村地帯でしたが、今日では人口94万人を超える(2025年都推計)住宅都市に発展しています。今回の巡検では、戦国時代末期まで存在していた城阯、江戸時代の代官屋敷跡や大山道など古道の歴史遺構、昭和に開かれた馬事公苑・東京農業大学キャンパス、かつて農業用水として利用され現在では暗渠化され緑道・一般道として整備された烏山川と品川用水跡地、関東大震災後に移転してきた烏山寺院通りを訪れました。区のほぼ中央部である世田谷地区から北部の烏山地区までを辿ったことになります。
 
 
1. 日時 2025年4月20()13:10-17:35
 
2. 参加者 11名
 
3. 巡検行程(🚶:歩き、🚃:電車、🚌バス
3-1 全行程
img20250515155119786563.jpg 現在の地理院地図約18.4kmの歩行・東急世田谷線・小田急線、路線バス(東急・京王・関東) 約4時間25分の移動時間、
約21mの高低差(最高標高50m、最低標高29m) 
img20250515155206698755.jpg 地形図スタート地点は穏やかな谷間ですが、ゴール地点は台地です。

巡検行程は、アプリ「スーパー地形」を用いて作成しています。
マウスを地図中央に合わせて 「コメントを確認できます。」
マウスを地図上でクリックすると「地図を拡大できます。」
地図左右をクリックで「地図を変更できます。」
 
3-2 各行程
1)大山道(旧道)沿道歴史遺構エリア
img20250527122744905716.jpg 現在の地理院地図+地形図世田谷城阯は、小高い丘です。 img20250520145053434644.jpg 今昔地図 1896年(明治29年)
〜 1909年(明治42年)
・ボロ市通り/代官屋敷/郷土資料館の周辺は集落地帯
・烏山川の周辺は農村地帯

① スタート:東急世田谷線三軒茶屋駅前(13:10)
📷 東急世田谷線三軒茶屋駅前(クリックすると写真が見れます。)
② 🚃東急世田谷線三軒茶屋駅乗車(13:12)
前身の玉川電気鉄道が、1925年(大正14年)、三軒茶屋〜下高井戸を開通。(今年、開通100周年)
路面電車であるが、ほぼ全区間が専用軌道。ただし環状7号線との交差点では道路信号に従う。
③ 🚃東急世田谷線上町駅下車
📷 東急世田谷線上町駅下車(クリックすると写真が見れます。)
④ 🚶烏山川緑道
源流の一つは、北烏山にある高源院の弁財天の池で、玉川上水からの通水も存在していた。この下流、池尻付近で北沢川用水(地表は緑道化)と合流し国道246号をくぐると目黒川(開渠)となる。
📷 烏山川緑道(クリックすると写真が見れます。)
⑤ 🚶世田谷城阯公園
世田谷城は、吉良氏によって築かれた。戦国時代、豊臣秀吉の小田原征伐により接収され廃城となった。土塁が残るのみであり、区立公園となっている。
📷 世田谷城阯公園(クリックすると写真が見れます。)
⑥ 🚶ボロ市通り(旧大山街道の一部)
市は北条氏の時代に「楽市」として開かれたが、明治になって古着やボロ布の扱いが主流となっていき、「ボロ市」と呼ばれるようになった。現在は12月と1月に開催され骨董品なども並ぶ。
⑦ 🚶世田谷代官屋敷(母屋と表門は国重要文化財)
📷 世田谷代官屋敷(クリックすると写真が見れます。)
18世紀半ば近く、世田谷村名主の大場家第7代当主盛政によって建てられ、同氏が彦根藩世田谷領代官に登用されると私邸かつ公務を行う場となり、大場代官屋敷とも呼ばれる。母屋と表門は江戸時代中期の代表的な大型民家の姿を残し、代官にふさわしい格式をもった建造物である。
⑧ 🚶世田谷区郷土資料館
1964年(昭和39年)開館。歴史的遺物や資料が収集展示され、古地図などの販売も行われている。
⑨ 🚌東急バス(渋22/23/24)桜小学校乗車(14:15)
 
2) 公苑/大学キャンパス・用水跡エリア
img20250527122823467413.jpg 現在の地理院地図+地形図馬事公苑・東京大学キャンパスはこのエリアで唯一の広大な緑地帯 img20250518160629888291.jpg 今昔マップ 1896年(明治29年)
〜1909年(明治42年)
・馬事公苑・東京農業大学キャンパスは、この時代存在せず
・品川用水は、現在の一般道路上に存在

⑩ 🚌東急バス農大前下車
⑪ 🚶品川用水跡(北見橋跡)
📷 北見橋跡石碑(クリックすると写真が見れます。)
玉川上水から取水され、現在の品川区地域などに農業用水を供給していた。昭和20年代後半に埋め立てられ、その後、現在の千歳通りが整備された。馬事公苑の東縁も用水跡である。 
⑫ 🚶馬事公苑
📷 馬事公苑(クリックすると写真が見れます。)
1940年(昭和15年)、騎手養成・馬事普及・馬術振興のために開苑した。東京オリンピックの馬術競技場となる予定であったが大会が中止され、その後、1964年、2020年(翌年に延期)大会では競技会場となった。競技場や厩舎のほか、芝生の広場や雑木林もあり散策できる。
⑬ 🚶東京農業大学
📷 東京農業大学キャンパス(クリックすると写真が見れます。)
1891年(明治24年)創設。旧陸軍自動車学校の跡地である世田谷キャンパスには1946年(昭和21年)に青山から移転してきた。➡「国際センター」があり巡検一行はここで休憩をとった。
⑭ 🚶横根の庚申塔道標
📷 庚申塔道標(クリックすると写真が見れます。)
江戸と多摩地方を結ぶ旧道「六郷田無道」に立つ。正面に府中道、南側面には大山街道へ、北側面には四ツ谷道への案内文字が刻まれている。数百メートル北側に並行する道路があり、近くで分岐・合流する。旧東京府道「駒沢吉祥寺線」の一部と考えられる。
⑮ 🚶経堂農大通り商店街・経堂在家村庚申塔道標
📷 経堂村庚申塔道標(クリックすると写真が見れます。)
商店街の南端で再び烏山川(緑道)を渡る。庚申塔は農大通りと古道(滝坂道?)との交差点に立つ。東方向は「青山」、西方向は「府中」、正面の南方向は「二子」(多摩川の渡し箇所)を示す。上記の写真📷を参照。
⑯ 🚃小田急線経堂駅乗車(15:33)
⑰ 🚃小田急線千歳船橋駅下車
📷 森繁通り(クリックすると写真が見れます。)
⑱ 🚌京王バス(歳23)千歳船橋駅乗車(15:50)
 
3) 関東大震災後の寺院移転エリア
img20250527123459341703.jpg 現在の地理院地図+地形 img20250518162001247821.jpg 今昔マップ 1896年(明治29年)
〜1909年(明治42年)
・北烏山の寺院が、この時代存在せず
・旧甲州街道沿いは、集落地帯
・玉川上水の周辺は、農村地帯

⑲ 🚌京王バス千歳烏山駅下車
⑳ 🚌関東バス(烏01)千歳烏山駅乗車(16:24)
📷 旧甲州街道(クリックすると写真が見れます。)
㉑ 🚌関東バス寺院通四番下車
㉒ 🚶烏山寺院通り(高源院)
📷 高源院高源院(池)烏山寺院通り(クリックすると写真が見れます。)
北烏山2丁目から6丁目にかけて、関東大震災(1923年・大正12年)の後、東京市の都市計画により東部(上野・浅草方面)から移転してきた26の寺院が立ち並ぶ。高源院の庭園にある池は湧水で烏山川の水源の一つと言われている。
㉓ 🚶玉川上水分水口跡 ⇒ (所在地:杉並区久我山)
📷 玉川上水玉川上水分水口跡(クリックすると写真が見れます。)
玉川上水岩崎橋に烏山村分水・上北沢村分水の取水口があった。遺構は残るが判別し難い。
㉔ 🚌関東バス(烏01)久我山病院乗車(17:28)
㉕ ゴール:🚌関東バス千歳烏山駅下車(17:35)