活動報告

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2022.12.18
 
地理の会交流会(オンライン)
 
日時:12月18日(日)19:00〜20:00
開催方法:Zoomミーティングを使用したオンライン
出席者:27名
 
内容:
1  10月新潟・新発田巡検 報告
10月15日〜16日開催された巡検のハイライト・発見・フォローについて、担当案内者より発表して頂きました。
 
① 新潟市内、地図を用いて巡検経路を説明
・信濃川流域、埋め立て変遷、新潟駅の位置変遷、古町の地域の経済的低下、イベント開催で賑わい復活、海岸の侵食
 
② 新発田市内、地図を用いて巡検経路の説明
・大倉製糸工場(現在病院)、新発田城跡、自衛隊駐屯地(旧陸軍)、白壁兵舎広報資料館、長徳寺(堀部安兵衛)、清水園(旧武家屋敷跡)
 
2  地理の会巡検23区シリーズ第16回 新宿区巡検報告
11月13日と20日開催された巡検のハイライト・発見・フォローについて、担当案内者より発表して頂きました。
 
① 巡検地については参加者の関心は幅広かったですが、案内全25地点について、巡検後に参加者にアンケートをとり印象に残った場所は以下の通りでした。
#1 箱根山(山手線内最高地点・大名庭園遺構(尾張徳川家下屋敷)・陸軍戸山学校跡)
#2 於岩稲荷(四谷怪談伝承地)
#3 夏目坂(夏目漱石生誕地)
#4 面影橋(神田川・地場産業(染色))
#5 多武峰内藤神社(内藤弥三郎伝承地・鉛筆の碑)
#6 高田馬場跡(堀部安兵衛伝承地)
 
② 巡検地と関係の深い文学作品の紹介
・井上ひさし「ナイン」(講談社文庫)での「しんみち通りの描写」
・夏目漱石「硝子戸の中」(新潮文庫)での「漱石生家の風景」
 
③ 新宿駅周辺の繁華街的なイメージとは異なる、古い街並み・起伏に飛んだ地形・歴史ある寺社庭園等が存在する意外性を発見できた。
 
3  最近の話題と情報
会員より、以下の2件発表して頂きました。
①ウズベキスタンからの報告
・地理的な説明:面積、人口、人口密度、首都、民族、言語
・移動経路説明:飛行機(トルコ航空)羽田→インスターブル→ウズベキスタン(国内はバス移動)
・歴史:紀元前から現代
・最近の話題:世界柔道選手権大会、上海協力機構首脳会談、憲法改正反対デモ、ロシア人の受け入れ
・日本との関わり:第二次世界大戦の日本人捕虜(シベリア抑留者の一部)が同国の建設に従事、日本語学校ノリコスクール(日本企業現地滞在エンジニアご夫婦が1999年退職金を元に無料の学校を創設)
・産業:綿花産業とアラル海の消滅
・宗教:イスラム寺院、塔
・ウズベキスタンの城:石垣がない、砂で作った可能性?
・訪問した印象:豊かではないが平和/安全/清潔/誠実、政府主導(大統領の権限大)、権力に従順(民主主義未発達)、建設と破壊の繰り返しの歴史、市民生活にイスラム教の影響が少ない、日本企業の影薄く韓国企業の活動が活発


②書籍紹介
・「お江戸・東京 坂タモリ 港区編」 発行:(株)ARTNEXT 発売:日販アイ・ピー・エス 価格:1650円(税込み)、単行本およびkindle版(電子書籍)
(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000091756.html)
・写真・著/タモリ、監修/山野勝
・会員2人の日本坂道学会員の対談
・坂紹介を写真、地図(古地図vs現代地図)、歩きコースで解説
 
4  会務報告等
世話人より入会状況・雑感について報告がありました。
・会員119名(13名が関東地区以外)、17名が今年度加入
・巡検/交流会などの参加者が固定化、他の方も気軽に参加できるような活動が今後の課題
 
5  今年の振り返りと来年の展望
代表より報告がありました。
・今年度はコロナ禍の状況を見ながら、9回の活動を行いました。
・来年度は今後の活動の方向性を探るために、会員の要望/希望についてアンケートを行いたい。
 


2022.11.13&20
 
地理の会巡検23区シリーズ第16回「新宿区」
東京都23区の第16番目の「新宿区」を2回に分けて巡検しました。
23区巡検進捗地図


1 四ツ谷から内藤新宿まで(甲州街道)
1-1 日時
2022年11月13日(日)13:00-16:00
 
1-2 参加人数
17名
 
1-3 テーマ
甲州街道と四ツ谷の谷地形、江戸城外濠遺構、典型的地形(開析谷・湧水)、六地蔵、投込寺その他地形と街道に関わる各種伝承地を歩く。
 
1-4 巡検行程
約5.7 kmの歩行移動距離、約3時間の移動時間、約17.5mの高低差
① スタート:四ツ谷駅(江戸城外堀歴史跡展示広場)
「2020年(令和2)年に展示広場を開設。史跡展示では、四ツ谷駅周辺の史跡案内や、江戸城外堀と鉄道の歴史について写真や解説文を載せたパネル展示を行うほか、甲武鉄道のシンボルである「甲(かぶと)」のレプリカを展示しています。」
・集合地点の展示広場で集合・巡検説明を行いました。
②新宿歴史博物館
「1989年(平成元年)に開館した区立の博物館。正面玄関前に1913年(大正2年)の開通当時から1991年(平成3年)まで使われていた四谷見附橋の高欄が展示されています。内藤新宿の復元模型、江戸時代の商家、昭和初期の文化住宅の復元家屋や、都電11系統(新宿駅前-月島通八丁目)・12系統(新宿駅前-両国駅)を走っていた車両のレプリカなども展示されています。」
③文化放送跡
「カトリック布教を目的に、聖パウロ修道会が1951年(昭和26年)に設立した「日本文化放送協会」(NCB) が前身です。その後、フジサンケイグループの傘下になり、2006年(平成18年)に浜松町に移転しました。」
④愛染院
「1634年に麹町から移転した、真言宗豊山派の寺院。内藤新宿の開設に努めた高松喜六や『群書類従』の編者の塙保己一の墓があります。」
⑤須賀神社
「須賀神社の始まりは1634年、赤坂の清水谷にあった稲荷神社を江戸城外堀普請のため四谷に遷座したことであるとされています。」
・愛染院から下りと上りの急な高低差(東福院坂・須賀神社石段)を経て神社にたどり着く道筋は、アニメ『君の名は』の物語の若い男女が再会するラストシーンに描かれた場所で有名です。当日は、あいにくの雨でしたが、アニメの聖地ということで、若い方が訪れていました。
⑥若葉公園
「闇坂(この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたそうです。)の急坂を下ったところに公園があります。起伏に富んだ地形の中に位置する公園です。また、湧水を利用した水路と池が設置されています。」
⑦お岩稲荷
「四谷怪談で知られる於岩稲荷田宮神社(1879年(明治12年)の火災によって焼失して中央区新川に移り、戦災で焼失後に再建され、また四谷の旧地にも再興)と於岩稲荷陽運寺(昭和初期創建)が、道を挟んで両側にあります。」
・道を挟んで、神社とお寺がお岩さんを祀っています。お岩さんは昔から人気者だったようです。
⑧多武峰神社・鉛筆の碑
「元は高遠藩内藤氏の邸内社でした。藩祖内藤弥三郎と名馬の伝説があり、『内藤新宿』の地名のもとになりました。また、三菱鉛筆の前身である『眞崎鉛筆製造所』 が1887年(明治20年)に、この地で創業。その後、1916年(大正5年)に品川区東大井に移転しました。創業時は、玉川上水の分水を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。」
・玉川上水が、鉛筆の製造に寄与していたことに驚きでした。
⑨四谷大木戸跡
「玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には、『水道碑記』が建てられています。ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して江戸市中へ配水していました。」
・新宿御苑散策路にある、2012年(平成24年)完成の「玉川上水・内藤新宿分水散歩道(全長540m)」を歩き、かつての玉川上水の流れを偲びました。
⑩太宗寺
「1596年ごろに僧・太宗が開いた草庵、『太宗庵』が前身で、高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓所が置かれています。境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された江戸六地蔵の第三番があります。」
・地蔵は、小さいイメージですが、見上げるほどの大きさでした。
⑪成覚寺
「1594年の創建と伝わっており、江戸時代には、歓楽街としても繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺でした。」
・飯盛女たちを弔うための「子供合埋碑」がありました。
⑫追分だんご
「『追分だんご』の由来は、1455年に太田道灌が武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で団子が献上されたことが由来と言われています。1698年、内藤新宿が伝馬の宿駅となったことにともない高井戸から新宿追分に移転し『追分だんご』と呼ばれるようになりました。」
・新宿3丁目交差点近くに「追分だんご本舗」のお店が現存しています。
⑬ゴール:新宿三丁目駅
「このあたりは、『新宿追分』と言われ、甲州街道と分岐している青梅街道の起点でした。」
・1915年(大正4年)には新宿追分駅・四谷新宿駅・京王新宿駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 、現・京王新宿三丁目ビル・旧本社ビル)が開業後、1945年(昭和20年)に京王線の起点を現在地に移転しました。現在の京王新宿三丁目ビル1階に「KEIO」のロゴを確認しました。
 
1-5 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」「大江戸今昔めぐり」を用いて
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1927〜1939年・昭和2〜14年)
③ 江戸末期の古地図
④ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」)
  img_8090.jpg ① 地理院の現在地図 約5.7 kmの歩行移動距離、約3時間の移動時間、約17.5mの高低差 img_8091.jpg ② 今昔地図(1927〜1939年
・昭和2〜14年)
巡検行程地点⑧に「旧玉川上水」、地点⑬に京王線「よつやしんじゅく」の記載
img_8099.jpg ③ 江戸末期の古地図巡検行程地点①に「四ツ谷御門」、地点④に「愛染院」、地点⑤に「牛頭天王別当宝蔵院(須賀神社)、地点⑦に「於岩稲荷」(巡検先と場所のずれ)、地点⑧に「玉川上水吐(余水吐)」「信濃高遠藩」、地点⑨に「大木戸」「水番屋構」、地点⑩に「太宗寺」、地点⑪に「成覚寺」、地点⑬に「追分」「内藤新宿上宿」の記載 img_8092.jpg ④ 地形図巡検行程地点①の江戸城外堀、地点④〜⑤の谷、地点⑥の谷に注目

1-6 巡検写真
(写真は、10秒毎の 自動再生です。)
  img_6642.jpg ① スタート:四ツ谷駅(江戸城外堀歴史跡展示広場)集合地点の展示広場で集合・巡検説明を行いました。 img_6649.jpg ②新宿歴史博物館正面玄関前に1913年(大正2年)の開通当時から1991年(平成3年)まで使われていた四谷見附橋の高欄が展示されています。 img_6650.jpg ②新宿歴史博物館内藤新宿の復元模型 img_6654.jpg ⑤須賀神社愛染院から下りの急な高低差(東福院坂) img_6655.jpg ⑤須賀神社愛染院から上りの急な高低差(須賀神社石段) img_6657.jpg ⑥若葉公園闇坂の急坂を下ったところに公園があります。起伏に富んだ地形の中に位置する公園です。 img_6658.jpg ⑦お岩稲荷於岩稲荷陽運寺(昭和初期創建) img_6660.jpg ⑦お岩稲荷於岩稲荷田宮神社(1879年(明治12年)の火災によって焼失して中央区新川に移り、戦災で焼失後に再建され、また四谷の旧地にも再興) img_6662.jpg ⑧多武峰神社元は高遠藩内藤氏の邸内社でした。藩祖内藤弥三郎と名馬の伝説があり、『内藤新宿』の地名のもとになりました。 img_6664.jpg ⑧鉛筆の碑三菱鉛筆の前身である『眞崎鉛筆製造所』 が1887年(明治20年)に、この地で創業。その後、1916年(大正5年)に品川区東大井に移転しました。 img_6668.jpg ⑨四谷大木戸跡玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には、『水道碑記』が建てられています。ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して江戸市中へ配水していました。 img_6674.jpg ⑨四谷大木戸跡新宿御苑散策路にある、2012年(平成24年)完成の「玉川上水・内藤新宿分水散歩道(全長540m)」を歩き、かつての玉川上水の流れを偲びました。 img_6677.jpg ⑩太宗寺1596年ごろに僧・太宗が開いた草庵、『太宗庵』が前身で、高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓所が置かれています。境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された江戸六地蔵の第三番があります。 img_6678.jpg ⑪成覚寺1594年の創建と伝わっており、江戸時代には、歓楽街としても繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺でした。 img_6681.jpg ⑬ゴール:新宿三丁目駅このあたりは、『新宿追分』と言われ、甲州街道と分岐している青梅街道の起点でした。
2 早稲田界隈
2-1  日時
11月20日(日) 13:00-16:30
 
2-2 参加人数
15名
 
2-3 テーマ
早稲田周辺の典型的地形(坂・非対称谷)、大名庭園、染色産業、空襲被災碑その他の神田川と淀橋台に関わる諸施設、伝承地等を歩く。
 
2-4 巡検行程
約6. 6kmの歩行移動距離、約3時間30分の移動時間、約37.7mの高低差
① スタート:早稲田中学校・高等学校
「1895年(明治28年)創立の私立男子の完全中高一貫校、早稲田大学の系属校。」
・集合地点の学校前で集合・巡検説明を行いました。
②箱根山
「箱根山は、山手線内において一番標高が高い人造の山で、山頂にある標高は44.6mです。徳川御三家の尾張家の下屋敷時代に回遊式邸園『戸山荘』として整備された際に、池を掘った残土を積み上げ固めて造成された築山と伝えられています。この地が陸軍戸山学校用地となった頃から『箱根山』と呼ばれるようになりました。」
・尾張徳川家下屋敷跡にある早稲田大学文化構想学部・文学部の戸山キャンパスで龍門の滝の碑を訪れました。
・箱根山頂で案内者より、新宿区概要の説明を受けました。
③八幡坂・穴八幡宮
「八幡坂は、『切り通し坂』という坂ミチ類型のひとつで人工的な地形改変を経たもの。切り下げ工事の跡が顕著です。」
「穴八幡宮は、源義家が奥州征伐の凱旋の帰途に八幡神を祀った故事が発祥とされています。『穴~』という名称は神田川の水利によって成立した付近の古代集落を巡る古墳の横穴が起源といわれています。」
・穴八幡宮の黒鳥居脇の案内板の江戸名所図会で案内者より説明を受けました。
④高田馬場跡
「馬場は1636年に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場でした。また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは、堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には、堀部安兵衛之碑が建っています。」
・高田馬場駅と実際の高田馬場の場所が離れていますが駅名と地名(住居表示)が離れている例は品川、大塚など多数あり、そのひとつです。
⑤甘泉園
「徳川御三卿の清水家の下屋敷があったところで、公園は屋敷にあった回遊式の大名庭園でした。当地の湧き水がお茶に適して評判であったことから、「甘泉園」と呼ばれました。1938年(昭和13年)には早稲田大学の施設となり、戦後は東京都に売却されて都立公園となりました。1969年(昭和44年)に新宿区の管轄となって現在に至っています。」
・台地上の武家地が近代の山の手に、谷底の町人地が下町になったという説がありますが甘泉園は湧水のある神田川沿いの低地にあります。このような低地の武家屋敷は隅田川沿いや日比谷など多数あります。天候のせいか人気はありませんでしたが園内の紅葉は見事でした。
⑥面影橋
「神田川に架かる面影橋(姿見の橋)は、単純なコンクリート橋ですが、太田道灌の山吹の里の逸話の地とされ、江戸時代・明治時代には名所のひとつでした。」
・案内者より、この辺りの神田川流域で染色業が盛んであったと説明がありました。明治時代以降、染色に適した水を求めて神田川の清流をさかのぼり、その流域には染色とその関連業者が多数集まって発展しました。現在では新都心に代表される新宿区の数少ない地場産業として伝統の技を継承しています。面影橋から神田川沿いを東へ進むと「東京染ものがたり博物館」に遭遇しました。
⑦グランド坂
「戸塚球場(現在の早稲田大学総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになリました。同球場は1949年(昭和24年)、早大野球部育ての親、安部磯雄教授の逝去により安部球場と改称し、1987年(昭和62年)まで存続しました。」
・ここで、周辺に特有な地形『非対称谷』の説明がありました。
⑧富塚
「1780年に開かれた都内最古の富士塚で、古墳の再利用であったといわれていました。元は水稲荷神社の境内でしたが、1963年(昭和38年)に水稲荷神社は早稲田大学との土地交換で、現在の甘泉園の一画へ移転して富塚は消滅しています。形状は円墳または前方後円墳であったとのことです。」
⑨早稲田大学構内
「1882年(明治15年)に創設した東京専門学校が前身です。1892年(明治25年)頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになり、以後1902年(明治35年)に、専門学校から大学への昇格を機に、大隈重信によって代表される早稲田の地名をとり「早稲田大学」と改称しました。」
・構内は微妙な高低差があり、神田川低地と河岸段丘の段丘面にまたがっいることが推定出来ます。あいにくの雨でしたが、参加者は、雨傘を差しながら、大隈重信像・大隈講堂・黄葉を眺めました。
⑩夏目坂
「夏目漱石の父(江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主)が夏目家の生家がこの坂の途上にあったことから命名しました。漱石自身も随筆『硝子戸の中』の中で詳述しています。新宿区は漱石の偉業を偲び、坂下に『夏目漱石誕生地記念碑』を敷設しました。」
・坂下交差点にあるリカーショップ小倉屋について、夏目漱石は「硝子戸の中」に記述しています。「それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。」
⑪早稲田小学校
「校舎は、関東大震災後の復興事業の一環として1928年(昭和3年)に建てられたもので、同時期に東京市内に建てられた鉄筋コンクリート造校舎(復興小学校)とは一味違った出来栄えになっています。当時の小学校建築のデザインの常識から逸脱した、城郭のような早稲田小学校の設計を手掛けたのは建築家の渡辺仁(1887~1973)。東京の銀座和光や終戦直後にGHQ本部として使われていた有楽町の第一生命ビル、東京上野の国立博物館本館などの設計で知られ、この当時を代表する建築家の一人でした。」
⑫漱石山房記念館
「夏目漱石の生誕150周年を記念して新宿区が2017年(平成29年)に開館しました。この地は、夏目漱石が、1916年(大正5年)の死没までの9年間を過ごした場所です。」
・改めて、夏目漱石の幅広い文学活動、人脈、影響力を学びました。
⑬感通寺・早大喜久井校舎
・今回は、時間の都合で訪れませんでしたが、早稲田大学キャンパス内に「戦没者供養観音像」があります。「1945年(昭和20年)5月25日に米空軍による東京空襲は山手地区の多くを焦土と化しました。早稲田大学理工学研究所の建物のほとんどが焼失しとりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて300余名が火炎と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となりました。(観音像碑文より)」また、感通寺には多数の犠牲者の姓名を刻んだ慰霊碑があります。
⑭ゴール:早稲田駅
「1964年(昭和39年)開業、東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅。」
 
2-5 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」「大江戸今昔めぐり」を用いて
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1917〜1924年・大正6〜13年)
③ 江戸末期の古地図
④ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」)
  img_8093.jpg ① 地理院の現在地図 約6. 6kmの歩行移動距離、約3時間30分の移動時間、約37.7mの高低差 img_8094.jpg ② 今昔地図(1917〜1924年
・大正6〜13年)
巡検行程地点②に「戸山学校(陸軍戸山学校)」、地点⑨に「大隈邸」の記載
img_8098.jpg ③ 江戸末期の古地図巡検行程地点②に「麿ヶ獄(箱根山)」「尾張名古屋藩」、地点③に「穴八幡宮」、地点④に「高田馬場」、地点⑤に「清水御屋形」、地点⑥に面影橋(姿見の橋)」、地点⑧に「水稲荷社地」の記載 img_8095.jpg ④ 地形図巡検行程地点②の山部、地点③の谷、地点⑤の低地武家屋敷、地点⑦の谷、地点⑨の神田川低地と河岸段丘の段丘面及び非対称谷、地点⑩の谷に注目

2-6 巡検写真
(写真は、10秒毎の 自動再生です。)
  img_6752.jpg ②箱根山尾張徳川家下屋敷跡にある早稲田大学文化構想学部・文学部の戸山キャンパスで龍門の滝の碑を訪れました。 img_6756.jpg ②箱根山箱根山は、山手線内において一番標高が高い人造の山で、山頂にある標高は44.6mです。徳川御三家の尾張家の下屋敷時代に回遊式邸園『戸山荘』として整備された際に、池を掘った残土を積み上げ固めて造成された築山と伝えられています。この地が陸軍戸山学校用地となった頃から『箱根山』と呼ばれるようになりました。 img_6759.jpg ②箱根山箱根山頂で案内者より、新宿区概要の説明を受けました。 img_6762.jpg ③八幡坂・穴八幡宮穴八幡宮の黒鳥居脇の案内板の江戸名所図会で案内者より説明を受けました。 img_6764.jpg ④高田馬場跡馬場は1636年に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場でした。また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは、堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところです。 img_6767.jpg ④高田馬場跡水稲荷神社の境内には、堀部安兵衛之碑が建っています。 img_6769.jpg ⑤甘泉園徳川御三卿の清水家の下屋敷があったところで、公園は屋敷にあった回遊式の大名庭園でした。当地の湧き水がお茶に適して評判であったことから、「甘泉園」と呼ばれました。 img_6774.jpg ⑥面影橋神田川に架かる面影橋(姿見の橋)は、単純なコンクリート橋ですが、太田道灌の山吹の里の逸話の地とされ、江戸時代・明治時代には名所のひとつでした。 img_6781.jpg ⑦グランド坂戸塚球場(現在の早稲田大学総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになリました。 img_6783.jpg ⑧富塚1780年に開かれた都内最古の富士塚で、古墳の再利用であったといわれていました。元は水稲荷神社の境内でした。 img_6785.jpg ⑨早稲田大学構内構内は微妙な高低差があり、神田川低地と河岸段丘の段丘面にまたがっいることが推定出来ます。あいにくの雨でしたが、参加者は、雨傘を差しながら、大隈重信像・大隈講堂・黄葉を眺めました。 img_6788.jpg ⑩夏目坂夏目漱石の父(江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主)が夏目家の生家がこの坂の途上にあったことから命名しました。 img_6790.jpg ⑩夏目坂新宿区は漱石の偉業を偲び、坂下に『夏目漱石誕生地記念碑』を敷設しました。 img_6791.jpg ⑪早稲田小学校校舎は、関東大震災後の復興事業の一環として1928年(昭和3年)に建てられたもので、同時期に東京市内に建てられた鉄筋コンクリート造校舎(復興小学校)とは一味違った出来栄えになっています。 img_6792.jpg ⑫漱石山房記念館夏目漱石の生誕150周年を記念して新宿区が2017年(平成29年)に開館しました。この地は、夏目漱石が、1916年(大正5年)の死没までの9年間を過ごした場所です。
 


2022.10.15-16
 
新潟巡検
2日間かけて、新潟県の新潟市と新発田市の巡検を行いました。
 
1 新潟市巡検 
1 -1日時
2022年10月15日(土)12:00-16:00
 
1−2 参加人数
11名
 
1-3テーマ
日本の都道府県庁所在地で、城下町起源ではない都市は11都市です。新潟市も城下町起源でない都市の1つであり、港町が起源の都市です。その港町は2つの都市(新潟・沼垂)から発展してきました。中世以来の2つの湊町から、現代の新潟へと発展してきた様子を観察しました。
 
1-4 巡検行程
約6.5kmの歩行移動距離、約4時間の移動時間、約16mの高低差
①スタート:新潟駅
② 駅前新天地:1904年(明治37年)に沼垂駅から大きなカーブを描き旧新潟駅が開業、現在の飲食街は駅構内でした。
③ 弁天公園:旧新潟駅の駅前跡地、新潟市初の公衆電話が公園内にあります。
④ 萬(万)代橋欄干:昔(初代:1986年〜1908年、2代目:1909年、橋長782m)はここまで信濃川の川幅があり、ここが萬代橋の東詰めでした。
⑤メディアシップ:新潟日報社の本社です。メディアシップは北前船の帆をモチーフにした地上20階建・全高104mの複合施設で、2012年に交流施設やテナントフロアなどの一般向けスペースを含めグランドオープンしました。展望台に登り、新潟市を眺望しました。
⑥万代橋:3代目(1929年〜)の橋。上流の分水路の完成により川幅が狭くなり橋長が309mになりました。路面電車が通れるように広い橋になっています。
⑦ 新潟市道路元標:8つの国道の起終点が集中しています。これは高知県の県庁前交差点と並んで日本最多です。また、8路線の起終点を示す標識である、道路元標が設置されています。
⑧ 本町商店街:ぷらっと本町商店街(南市場)を歩きました。平日の朝には露店が並びます。
⑨ 運河跡:高度成長期に入り、新潟国体の開催、自動車交通の増加、堀の悪臭や汚染によって、1964年(新潟国体)までに全ての堀が埋め立てられました。現在も道路の名前が堀の名前になっています。
⑩ 古町ルフル:百貨店が閉店した跡地が再開発されました。
⑪ NEXT21:このあたり江戸時代には町奉行所がありましたが、新潟市役所になりました。その後、NEXT 21という商業ビルが建設されましたが、テナントが相次いで撤退して、現在は中央区役所になっています。1階に江戸時代の新潟市の鳥瞰図の壁画がありました。
⑫ 西堀地下街:西堀が埋め立てられ、地下1階に地下街、地下2階に駐車場が設置されました。開業当初はすれ違うのも大変な賑わいでしたが、現在は閑散としています。チャレンジショップも入っています。
⑬ 三越跡地:古町の百貨店は全て閉店しています。
⑭ どっぺり坂:砂丘の斜面にある階段です。坂の上に存在した旧制新潟高校(現新潟大学)の寮生が、古町の繁華街へこの坂を下って遊びに行きすぎると、落第(ドイツ語「ドッペルン」(二重))するぞ、という戒めが由来です。合格点 60点に対して、段数は59段です。
⑮ 旧斎藤家別邸:豪商齋藤家の4代斎藤喜十郎が、1918年(大正7年)に別荘として作った砂丘地形を利用した回遊式庭園と近代和風建築の開放的な建物です。大正時代の商都新潟の繁栄がわかります。
⑯ 地獄極楽小路:旧新潟刑務所(地獄,1971 年に移転し,現在は西大畑公園)と行形亭(極楽)との間にあります。
⑰日本海:新潟砂丘と防災林を越えて日本海を望みました。
⑱ホテルイタリア軒:イタリア人、ピエトロ・ミリオーレ(ミオラ)は1874年(明治7年)に新潟へやってきたフランスの曲馬団の一員であったといわれ、1880年(明治13年)の大火の後、西堀通8番町に西洋料理店イタリア軒を開き、日本最古のイタリア料理店として古くから市民に親しまれました。
⑲鍋茶屋:1846年(弘化3年)創業の料亭です。建造物は、2000年(平成12年)に登録有形文化財に登録されました。
⑳ゴール:古町バス停
 
1-5 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1911年・明治44年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」)
  img_8070.jpg ①現在地図約6.5kmの歩行移動距離、約4時間の移動時間、約16mの高低差 img_8072.jpg ② 1911年・明治44年現在との相違、「新潟駅の位置」「萬(万)代橋の長さ」
「新潟市の運河」「海岸位置」
img_8071.jpg ③ 地形図日本海近くの砂丘の標高が高い

1−6巡検写真
(写真は、10秒毎の 自動再生です。)
  img_6302.jpg ①スタート:新潟駅駅前広場が再開発中でした。 img_6304.jpg ② 駅前新天地1904年(明治37年)に沼垂駅から大きなカーブを描き旧新潟駅が開業、現在の飲食街は駅構内でした。 img_6306.jpg ④ 萬(万)代橋欄干昔(初代:1986年〜1908年、2代目:1909年、橋長782m)はここまで信濃川の川幅があり、ここが萬代橋の東詰めでした。 img_6312.jpg ⑤メディアシップ新潟日報社の本社です。メディアシップは北前船の帆をモチーフにした地上20階建・全高104mの複合施設で、2012年に交流施設やテナントフロアなどの一般向けスペースを含めグランドオープンしました。展望台に登り、新潟市を眺望しました。 img_6315.jpg ⑥万代橋3代目(1929年〜)の橋。上流の分水路の完成により川幅が狭くなり橋長が309mになりました。路面電車が通れるように広い橋になっています。 img_6319.jpg ⑦ 新潟市道路元標8つの国道の起終点が集中しています。これは高知県の県庁前交差点と並んで日本最多です。また、8路線の起終点を示す標識である、道路元標が設置されています。 img_6321.jpg ⑧ 本町商店街ぷらっと本町商店街(南市場)を歩きました。平日の朝には露店が並びます。 img_6324.jpg ⑪ NEXT21このあたり江戸時代には町奉行所がありましたが、新潟市役所になりました。その後、NEXT 21という商業ビルが建設されましたが、テナントが相次いで撤退して、現在は中央区役所になっています。1階に江戸時代の新潟市の鳥瞰図の壁画がありました。 img_6326.jpg ⑫ 西堀地下街西堀が埋め立てられ、地下1階に地下街、地下2階に駐車場が設置されました。開業当初はすれ違うのも大変な賑わいでしたが、現在は閑散としています。チャレンジショップも入っています。 img_6328.jpg ⑭ どっぺり坂砂丘の斜面にある階段です。坂の上に存在した旧制新潟高校(現新潟大学)の寮生が、古町の繁華街へこの坂を下って遊びに行きすぎると、落第(ドイツ語「ドッペルン」(二重))するぞ、という戒めが由来です。合格点 60点に対して、段数は59段です。 img_6330.jpg ⑮ 旧斎藤家別邸豪商齋藤家の4代斎藤喜十郎が、1918年(大正7年)に別荘として作った砂丘地形を利用した回遊式庭園と近代和風建築の開放的な建物です。大正時代の商都新潟の繁栄がわかります。 img_6332.jpg ⑯ 地獄極楽小路旧新潟刑務所(地獄,1971 年に移転し,現在は西大畑公園)と行形亭(極楽)との間にあります。 img_6338.jpg ⑰日本海新潟砂丘と防災林を越えて日本海を望みました。 img_6340.jpg ⑱ホテルイタリア軒イタリア人、ピエトロ・ミリオーレ(ミオラ)は1874年(明治7年)に新潟へやってきたフランスの曲馬団の一員であったといわれ、1880年(明治13年)の大火の後、西堀通8番町に西洋料理店イタリア軒を開き、日本最古のイタリア料理店として古くから市民に親しまれました。 img_6341.jpg ⑲鍋茶屋1846年(弘化3年)創業の料亭です。建造物は、2000年(平成12年)に登録有形文化財に登録されました。
 
2 新発田市巡検 
 
2-1 日時
2022年10月16日(日)9:30-12:30
 
2−2
参加人数:10名
 
2-3 テーマ
県内唯一の江戸時代遺構のある城跡と歴史的遺産豊富な城下町を歩く。
 
2−4 巡検行程
約6.1kmの歩行移動距離、約3時間の移動時間、約5mの高低差
①スタート:新発田駅
② 大倉喜八郎像:1919年(大正8年)、大倉喜八郎は(株)大倉製糸新発田工場を開業しました。その跡地には、新潟県立新発田病院が整備され、病院前の公園には喜八郎の胸像が設置されました。
③ 新発田市内:市内の商店街は、シャッターを下ろした店が多く、旧バスターミナルも駐車場に変わったそうです。道路には、雪国特有の消雪パイプがあり鉄分の多い地下水を使用しているために道路が錆びた茶色になっていました。商店街の活性化の一環として市役所庁舎「ヨリネスしばた」が2017年に開設されました。「ヨリ」は市民が立ち寄る、市民と行政の糸を撚り合せた太い綱という意味を表しており、「ネス」は新発田の方言とのことです。
④ 堀部安兵衛生誕碑:赤穂浪士四十七士の一人に数えられる堀部安兵衛は新発田藩中山弥次右衛門の嫡子として新発田に生まれました。
⑤ 新発田城址:新発田氏の築城から戦国時代には、上杉氏から溝口氏が入封しました。溝口氏が幕末まで統治し、明治以降は、軍隊が入り、第2次世界大戦後は、自衛隊が駐屯しています。城の半分は、城跡として残り観光資源で残っています。表門、辰巳櫓、隅櫓、三階櫓を見てまわりました。
⑥ 白壁兵舎広報史料館:明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、2014年(平成26年)から『広報史料館』として開館、館内には新発田城関連史料、日清戦争から大東亜戦争に至る数々の作戦に参加した陸軍歩兵、郷士部隊の関連史料及び将兵の遺品、そして陸上自衛の訓練風景や災害派遣等の写真及び装備品等を展示し、過去から現在に至る郷土部隊の資料等を展示しています。
⑦ 大倉喜八郎生誕之碑:1837年(天保8年)、大倉喜八郎は越後国新発田城下の下町(現在の大手町)に生まれました。それを記念して2001年(平成13年)に建てられた石碑です。
⑧ 長徳寺:赤穂浪士堀部安兵衛の縁の寺です。父・弥次右衛門が辰巳櫓の失火の責任をとり浪人となりますが、間もなく亡くなり、中山家の菩提寺である長徳寺に葬られました。その後、安兵衛は長徳寺に印籠と共に石代松を預け江戸に出府しました。長徳寺の「堀部安兵衛手植えの松」はこの時に残したものと伝えられています。
⑨ 清水園:新発田藩の近江八景を取り入れた回遊式庭園です。2003年(平成15年)に「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」の名称で、国の名勝に指定されました。
⑩足軽長屋:新発田藩の足軽の長屋形式の住居です。国の重要文化財に指定されています。
⑪蔵春閣:1916年(大正5年)大倉喜八郎は諏訪町に約3,000坪の土地を購入し、公園を造成して当時の新発田町に寄附しました。それが現在の東公園です。公園には記念碑が建つほか、喜八郎が東京・向島に建てた別邸「蔵春閣」の移築が進められています。
⑫ゴール:新発田駅
 
2-5行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて
① 地理院の現在地図
② 今昔地図(1931年・昭和6年)
③ 地形図
(マウスを地図に合わせると、「地図左右中央をクリックで地図を変更できます」「地図中央でコメントを確認できます」)
  img_8073.jpg ① 現在地図約6.1kmの歩行移動距離、約3時間の移動時間、約5mの高低差 img_8075.jpg ② 1931年・昭和6年現在との相違、「新発田駅近くの病院位置に大倉製糸工場」「陸上自衛隊新発田駐屯地が日本陸軍歩兵隊地」 img_8074.jpg ③ 地形図ほとんど高低差のない平坦地
2−6 巡検写真
(写真は、10秒毎の自動再生です。)
  img_6367.jpg ② 大倉喜八郎像1919年(大正8年)、大倉喜八郎は(株)大倉製糸新発田工場を開業しました。その跡地には、新潟県立新発田病院が整備され、病院前の公園には喜八郎の胸像が設置されました。 img_6370.jpg ③ 新発田市内市内の商店街は、シャッターを下ろした店が多く、旧バスターミナルも駐車場に変わったそうです。 img_6371.jpg ③ 新発田市内道路には、雪国特有の消雪パイプがあり鉄分の多い地下水を使用しているために道路が錆びた茶色になっていました。 img_6375.jpg ③ 新発田市内商店街の活性化の一環として市役所庁舎「ヨリネスしばた」が2017年に開設されました。「ヨリ」は市民が立ち寄る、市民と行政の糸を撚り合せた太い綱という意味を表しており、「ネス」は新発田の方言とのことです。 img_6376.jpg ④ 堀部安兵衛生誕碑赤穂浪士四十七士の一人に数えられる堀部安兵衛は新発田藩中山弥次右衛門の嫡子として新発田に生まれました。 img_6380.jpg ⑤ 新発田城址新発田氏の築城から戦国時代には、上杉氏から溝口氏が入封しました。 img_6381.jpg ⑤ 新発田城址溝口氏が幕末まで統治し、明治以降は、軍隊が入り、第2次世界大戦後は、自衛隊が駐屯しています。 img_6384.jpg ⑤ 新発田城址城の半分は、城跡として残り観光資源で残っています。表門、辰巳櫓、隅櫓、三階櫓を見てまわりました。 img_6385_20221105161757830.jpg ⑤ 新発田城址初代藩主、溝口秀勝像 img_6417_20221105160008534.jpg ⑥ 白壁兵舎広報史料館明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、2014年(平成26年)から『広報史料館』として開館。 img_6419.jpg ⑦ 大倉喜八郎生誕之碑1837年(天保8年)、大倉喜八郎は越後国新発田城下の下町(現在の大手町)に生まれました。それを記念して2001年(平成13年)に建てられた石碑です。 img_6422.jpg ⑧ 長徳寺赤穂浪士堀部安兵衛の縁の寺です。父・弥次右衛門が辰巳櫓の失火の責任をとり浪人となりますが、間もなく亡くなり、中山家の菩提寺である長徳寺に葬られました。その後、安兵衛は長徳寺に印籠と共に石代松を預け江戸に出府しました。長徳寺の「堀部安兵衛手植えの松」はこの時に残したものと伝えられています。 img_6427.jpg ⑨ 清水園新発田藩の近江八景を取り入れた回遊式庭園です。2003年(平成15年)に「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」の名称で、国の名勝に指定されました。 img_6429.jpg ⑩足軽長屋新発田藩の足軽の長屋形式の住居です。国の重要文化財に指定されています。 img_6431.jpg ⑪蔵春閣1916年(大正5年)大倉喜八郎は諏訪町に約3,000坪の土地を購入し、公園を造成して当時の新発田町に寄附しました。それが現在の東公園です。公園には記念碑が建つほか、喜八郎が東京・向島に建てた別邸「蔵春閣」の移築が進められています。


2022.9.25
 
地理の会交流会(オンライン)
 
日時:9月25日(日)19:00~20:00
開催方法:Webexミーテイングを使用したオンライン
参加人数;22名
 
内容:
1  10月開催予定の新潟・新発田市内 巡検概要
10月15日〜16日開催予定の巡検予定について、担当者(会員)より説明して頂きました。
① 10月15日(土)新潟市内
・テーマ
砂丘と川によって遷り変わってきた、都市の発展と変遷と繁栄の歴史を歩く。
・行程予定
新潟駅→旧新潟駅→万代シティ→新潟日報メディアシップ→万代橋→古町→問屋や豪商の屋敷
 
② 10月16日(日)新発田市内
・テーマ
県内唯一の江戸時代遺構のある城跡と歴史的遺産豊富な城下町を歩く。
・行程予定
新発田駅→蕗谷虹児記念館→新発田城址(表門、辰巳櫓など)→白壁兵舎広報史料館→長徳寺(赤穂浪士堀部安兵衛縁の古刹)→清水園・足軽長屋→ 新発田駅

 
2  「北国街道海野宿と信濃国分寺」を訪れて(会員より発表)
北国街道(軽井沢の西の追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道にに合流する江戸時代の脇街道)の海野宿と信濃国分寺を訪れた記録を写真を用いて説明して頂きました。
地図(アプリ「スーパー地形」)


① 海野宿
約100棟の家が連なる歴史的な町並みを形成しており、「日本の道100選」「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。もともと、平安・鎌倉時代の海野氏の領地として栄えた城下町で、江戸時代になってから北国街道の宿場町として、佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客などで賑わっていました。明治以降は、養蚕業を行い、養蚕の町として発展しました。今回、海野氏の氏神の白鳥神社、養蚕業の伝統的建造物などを見て回りました。訪れる観光客も少なく、綺麗な古き町並みを堪能しました。
 
②信濃国分寺
奈良時代の聖武天皇の時代に、長野県の上田市には信濃国の国府が設けられたと見られ、創建時の国分寺跡・尼寺跡は、現在はその中をしなの鉄道(旧信越本線)が通っています。その跡地の北方300mの場所に現在の国分寺が立っています。旧国分寺の存続期間については、発掘調査によって平安時代初期までは認められていますが、現国分寺への移転の年代は定かでないそうです。一説には、938年の平将門による戦いでの焼亡もあります。発表者は、887年の地震で北八ヶ岳の火山体が強く揺すられ、大規模な山体崩壊で形成された天然ダムの決壊洪水が、旧信濃国分寺を壊滅させたのではないかと語って頂きました。興味深い推測でした。
 
3   11月開催予定の新宿区巡検について
11月開催予定に巡検について、担当者(会員)より説明して頂きました。
・23区シリーズ 第16回目の「新宿区」を午前と午後に行う予定(コロナ感染状況により半日巡検、2回開催の可能性有り)
午前に、「甲州街道と四ツ谷の谷地形」、午後に、「早稲田界隈」の巡検を計画中。詳細は、後日に順次連絡予定。
 


2022.8.21
 
地理の会 夏の交流会(会員発表など)
テーマ:「街道歩き」
 
日時:8月21日(日)17:00〜18:50
開催方法:Webexミーテイングを使用したオンライン
参加人数:    29名

内容:
1「東海道 歩けば何か 見えてくる(Discover TOKAIDO)」
2018年1月14日に日本橋をスタートして、1ヶ月に1回開催、7月〜9月の夏休暇、コロナ禍で3回中止を経て、2021年11月7日に京都・三条大橋にゴール、3年と11か月かけて歩いた東海道歩きについて報告して頂きました。東海道歩きで見聞したKey Wordのうち、浮世絵の広重の東海道五拾三次を題材にして、①日本橋〜②神奈川〜③箱根〜④吉原〜⑤由井〜⑥嶋田〜⑦日坂〜⑧白須賀〜⑨御油〜⑩鳴海〜⑪桑名〜⑫関〜⑬水口〜⑭大津〜⑮京師の道のりについて地図と写真で説明してもらいました。東海道を歩き終えて、新しい発見・驚き・感動があり、また、改めて日本の良さも感じ学びもあったとのことです。
 
行程地図(アプリ「スーパー地形」・「FieldAccess2」)

 
2「熊野古道の道すがら」
4年前に、世界遺産で有名な熊野本宮大社に通じる参詣道・熊野古道の中辺路を歩いた道のりについて、写真を交えて報告して頂きました。①スタート:JR紀伊本線紀伊田辺駅~②潮見峠~③滝尻王子~④不寝王子~⑤大門王子~⑥大坂本王子~⑦近露王子跡~⑧継桜王子~⑨小広王子~⑩湯川王子~⑪発心門王子~⑫水呑王子~⑬伏拝王子跡~⑭ゴール:熊野本宮大社間の60kmを歩きました。信仰の道にふさわしく、熊野神社の末社である王子を巡る歩きでした。世界遺産ということで、途中で新婚旅行で熊野古道を歩きに来ている外国人にも会いました。熊野本宮大社は、熊野三山の一つでユネスコ世界遺産で、大鳥居は、鉄筋コンクリート造で日本一高く、高さ33.9mです。またここには、日本神話に登場する3本足のカラスであり導きの神の八咫烏(やたがらす)の像があります。この八咫烏は、日本サッカー協会のマークとしても使われています。今回の歩きは、古き道を歩いただけでなく、熊野の神様に導かれるような歩き旅だったとのことです。
 
行程地図(アプリ「スーパー地形」)
 

 
3 メンバーからのお知らせ
日本地理学会2022年秋季学術大会(香川大学)で、地理学のアウトリーチ活動の一環として、市民向けの第1回公開講演会開催(2022年9月24日)についてお知らせがありました。
 
4  次回以降の予定について
9月(開催日未定)交流会 (10月巡検の予告)
10月15〜16日 新潟・新発田巡検
11月(開催日未定)23区シリーズ巡検第16回「新宿区」
 

2022.6.26
 
メンバー発表会(オンライン)
 
日時:2022年6月26日(日) 17:00〜18:30   
開催方法:Webexミーテイングを使用したオンライン
参加人数:    23名
 
 
内容:
1 題名:「屏風ヶ浦名洗付近での海食崖関連の地形紹介」
発表者:吉村光敏さん
以下の内容で、発表して頂きました。
① 屏風ヶ浦の概要:屏風ヶ浦は、つい最近まで、凄い海食地形の発達地だった。離岸砂防堤のため海食が止まり、現在は崖錐地形の急激発達地になっている。ありふれた地形でしかないように言われている海食崖も、微地形サイズで見ていくと、未記載の地形種や地形現象がある。
・地形図・航空写真を用いて屏風ヶ浦の概要を説明
・海食崖の地形地質
・海食崖型の懸谷と風隙
・消波堤が海食を止め崖錐が発達
・海岸の向きにより海食崖の形が違ってくる。(海食崖の微地形)
② 名洗浦の変化復元:江戸期の農学者宮負定雄著「下総名勝図絵」に弘化4年(1847年)に描いた自筆のスケッチ図「屏風ヶ浦名洗浜」があります。この図により屏風ヶ浦の海食で消え去った180年前の岬地形を復元しました。
・現在は、宮負の絵図にあった岬は全く無いが、「下総名勝図絵」には、確かに岬が描かれていた。
・迅速図(1880年)と同じ頃の地籍図で岬の山が確認できないが痕跡は確認できた。
・大正か昭和初期の時代順の絵葉書(3枚)を見ると岬が2つの島分に分かれていたものが海食によりなくなっているのがわかった。
・以上のデータをもとに、「下総名勝図絵 名洗の濱」図の景観復元を行った。
 
2 私の「地理への想い・地理活動・地理の情報提供」 
会員3人の方に、語って頂きました。


3 題名:「国土地理院・1/2.5万火山土地条件図「浅間山」の発行とやんば天明泥流ミュージアムの開館1年」
発表者:井上公夫さん
下記について、地図(平面図・立体図)・古文書・絵図などを用いて、詳細に説明して頂きました。
① 開館して、1年経った「やんば天明泥流ミュージアム
https://www.town.naganohara.gunma.jp/www/yamba-museum/
②国土地理院・1/2.5万火山土地条件図「浅間山」
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/volcano-maps-vbm-data-release_00026.html
③今回の発表の内容は、「いさぼうネット コラム78」で閲覧できます。
 https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum78.asp
④浅間山(標高2568m)の天明三年(1783年)の天明噴火について
・浅山天明噴火の概要
・鎌原土石なだれの分布状態
・鎌原土石なだれの噴出場所
・鎌原土石なだれの噴火・流下・堆積機構
・鎌原土石なだれから天明泥流への変化
・吾妻川沿いの天明泥流と土砂災害
最後に、今回の発表で興味を持たれ方に、浅間山大噴火で噴出した溶岩が造った奇岩地帯「鬼押し出し」のある長野原町営浅間園のヴォルケーノウォーク(自然遊歩道)、やんば天明泥流ミュージアム、嬬恋郷土資料館の訪問を勧めて頂きました。
 
4  次回行事の予告
8月に交流会を含めた講演会またはメンバー発表会(会場[感染状況による]とオンライン併用のハイブリッド)、開催日は未定。
 


2022.5.21
 
地理の会交流会(オンライン)
日時:2022年5月21日(土)20:00〜21:00
開催方法;Webexミーテイングを使用したオンライン
参加者;26名
 
内容
1 草加巡検の振り返り
  1-1 参加者からの感想
・松原団地の変遷を知って住宅政策の歴史について興味を持ちました。
・国指定名勝・草加松原で、立派な松並木が西日に照らされて美しく、人々が散策・ジョギングしているところがとても良かった。また、川向に大きな化学工場が見えて、草加の町の多様性として面白く思いました。
・「草加せんべいの草加」くらいにしか知らなかった草加に、驚くほど多くの発見があり興味が湧きました。
  1-2 案内人からの感想 
・今回の巡検から、①東京隣接都市の共通点・独自性 ②近郊の宿場町比較 ③水田地帯からの地域の変容について改めて関心を持った。
・下見で歩くたびに新しい発見があり興味深く勉強になりました。また、コロナ禍で久しぶりの巡検で、参加者と話題交換ができて良かった。
 
2 最近の地理の本から(おススメ本の紹介)
出席者から、次の2冊が紹介されました。
・『13歳からの地政学』(田中孝幸 著)東洋経済新報社
子供が「地政学」を楽しくわかりやすく学べる本です。大人が読んでも興味深い本でした。
(https://str.toyokeizai.net/books/9784492444689/)
・『地理トレ』(原光一・地理トレ編集部 編)帝国書院
2020年2月8日の地理の会の講演会で演者して頂いた原光一さんの編著書、クイズ形式で地理を深く学べます。
(https://www.teikokushoin.co.jp/common/books/detail/1088/)
 
3 最近の話題から
・出席者から、千葉県立中央博物館の「北海道知床羅臼沖で3種類の新種エビを公表」(同博物館とふくしま海洋科学館との共同研究成果)の紹介があった。
(https://www.pref.chiba.lg.jp/bunshin/event/2022/20220513shrimp.html)
 
4次回行事の予告
開催日:2022年6月26日(日)時間は未定です。
当初予定の講演会から、会員主体の発表会(オンライン)に変更します。
 
 


2022.4.16
 
草加巡検
日時:2022年4月16日(土)12:30~17:00
参加人数: 13名
 
1 テーマ
東京に隣接した通勤住宅都市として認識される草加市は、江戸期以降日光街道の宿場町、水運の町として、また地場産業の街として、そして戦後は住宅都市、工業都市、学園都市としても発展してきた、多様性のある興味尽きない街です。草加の発展と変化を歩きました。
 
2 巡検行程
約9.8kmの移動距離(歩いたのは、6.6km)、約4時間30分の移動時間、約4mの高低差
(⑮〜⑯間で獨協大学前駅〜新田駅東口の移動に草加市コミュニティバス「パリポリくんバス」を利用し、その他の移動は徒歩で行いました。)
①スタート:東武スカイツリーライン草加駅
②県道・旧日光街道分岐(草加宿標識):草加宿の江戸口、草加宿は日光街道中の宿として1606年に完成し、1630年に千住の次の宿に指定されました。
③浅古家地蔵堂:草加市役所(現在建替工事中)は、豪商、浅古家の邸宅地でした。現在は、屋敷神の子育て地蔵の地蔵堂と浅古正三家の母家が残っています。
④大川本陣跡(石碑):江戸時代の宝暦まで本陣があった場所に石碑があり、向かい側には宝暦〜明治初期までの清水本陣の石碑があります。
⑤ 歴史民俗資料館:1926年(大正15年)に建てられた旧草加小学校を活用しています。草加の歴史を学ぶことができます。
⑥東福寺:草加宿の開宿に尽力した大川図書が1606年に創建しました。彼のお墓もここにあります。
⑦草加せんべいの店:この辺り草加せんべいのお店が集まっています。ポールサイン(建植看板)に草加せんべいを用いているお店に興味が湧きました。
⑧神明宮:1615年に始まり、1713年に宿の総鎮守として現在地に移されたと伝えられています。またここには、明治時代に測量に使われた高低測量几号(水準点)が設置されています。
⑨草加せんべい発祥の地碑:おせん公園に草加せんべい発祥の地の石碑が建っています。
⑩甚左衛門堰:水田の用水量を調整するため、綾瀬川と伝右川の間に設けられた水門です。1894年(明治27年)に煉瓦造りで完成して、1983年(昭和58年)まで約90年間使用されました。
⑪札場河岸公園・芭蕉庵:奥の細道旅立ち300年を記念して建立されました。公園内に芭蕉庵、望楼、松尾芭蕉像があります。
⑫矢立橋:奥の細道にちなんだ太鼓橋、1994年(平成6年)に建設されました。
⑬国指定名勝・草加松原:2014年(平成26年)奥の細道に関連する名勝地の草加松原が国指定名勝として指定されました。市民の憩いの場「まつばら綾瀬川公園」は、かつては赤煉瓦製造会社の大阪窯業東京工場でした。また煉瓦の運搬用に東武鉄道に繋げる引込線がありました。
⑭獨協大学前(草加松原)駅:1962年(昭和37年)松原団地駅として開業後、2017年(平成29年)獨協大学前(草加松原)駅に改称しました。
⑮松原団地西口公園:1962年(昭和37年)に入居が開始され、完成当時、東洋最大規模といわれたマンモス団地でした。現在は、老朽化したため順次コンフォール松原として建て替えが行われています。
⑯藤助河岸跡・蒲生一里塚:江戸時代の中頃より舟運のために綾瀬川に河岸が設けられ昭和初期まで利用されました。河岸の近くに日光街道の一里塚が東側の一基が残されています。埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚です。
⑰ゴール:東武スカイツリーライン新田駅
 
3 行程地図
上記の巡検行程をアプリ「スーパー地形」を用いて、現在・1965-1968・1927-1939の地図で説明
(マウスを用いて地図左右中央をクリックで地図を変更できます。)
  img_7605.jpg img_7606.jpg img_7607.jpg
 
4 巡検写真
(写真は、10秒毎の自動再生です。)
img_5733.jpg ①スタート:東武スカイツリーライン草加駅 img_5738.jpg ②県道・旧日光街道分岐(草加宿標識)草加宿の江戸口、草加宿は日光街道中の宿として1606年に完成し、1630年に千住の次の宿に指定されました。 img_5741.jpg ③浅古家地蔵堂草加市役所(現在建替工事中)は、豪商、浅古家の邸宅地でした。現在は、屋敷神の子育て地蔵の地蔵堂と浅古正三家の母家が残っています。 img_5743.jpg ③浅古家地蔵堂浅古正三家の母家が残っています。 img_5753.jpg ④大川本陣跡(石碑)江戸時代の宝暦まで本陣があった場所に石碑があり、向かい側には宝暦〜明治初期までの清水本陣の石碑があります。 img_5754.jpg ④大川本陣跡(石碑)宝暦〜明治初期までの清水本陣の石碑 img_5756.jpg ⑤ 歴史民俗資料館1926年(大正15年)に建てられた旧草加小学校を活用しています。草加の歴史を学ぶことができます。 img_5761.jpg ⑤ 歴史民俗資料館江戸時代の草加宿ジオラマ img_5767.jpg ⑥東福寺草加宿の開宿に尽力した大川図書が1606年に創建しました。彼のお墓もここにあります。 img_5768.jpg ⑦草加せんべいの店この辺り草加せんべいのお店が集まっています。ポールサイン(建植看板)に草加せんべいを用いているお店に興味が湧きました。 img_5770.jpg ⑧神明宮1615年に始まり、1713年に宿の総鎮守として現在地に移されたと伝えられています。またここには、明治時代に測量に使われた高低測量几号(水準点)が設置されています。 img_5771.jpg ⑨草加せんべい発祥の地碑おせん公園に草加せんべい発祥の地の石碑が建っています。 img_5778.jpg ⑩甚左衛門堰水田の用水量を調整するため、綾瀬川と伝右川の間に設けられた水門です。1894年(明治27年)に煉瓦造りで完成して、1983年(昭和58年)まで約90年間使用されました。 img_5781.jpg ⑪札場河岸公園・芭蕉庵奥の細道旅立ち300年を記念して建立されました。公園内に芭蕉庵、望楼、松尾芭蕉像があります。 img_5782.jpg ⑪札場河岸公園・芭蕉庵松尾芭蕉像 img_5804.jpg ⑫矢立橋江戸時代の松原を描いたタイルがありました。 img_5810.jpg ⑬国指定名勝・草加松原2014年(平成26年)奥の細道に関連する名勝地の草加松原が国指定名勝として指定されました。 img_5814.jpg ⑬国指定名勝・草加松原市民の憩いの場「まつばら綾瀬川公園」は、かつては赤煉瓦製造会社の大阪窯業東京工場でした。また煉瓦の運搬用に東武鉄道に繋げる引込線がありました。 img_5819.jpg ⑭獨協大学前(草加松原)駅1962年(昭和37年)松原団地駅として開業後、2017年(平成29年)獨協大学前(草加松原)駅に改称しました。 img_5823.jpg ⑮松原団地西口公園1962年(昭和37年)に入居が開始され、完成当時、東洋最大規模といわれたマンモス団地でした。現在は、老朽化したため順次コンフォール松原として建て替えが行われています。 img_5831.jpg ⑯藤助河岸跡・蒲生一里塚江戸時代の中頃より舟運のために綾瀬川に河岸が設けられ昭和初期まで利用されました。 img_5833.jpg ⑯藤助河岸跡・蒲生一里塚河岸の近くに日光街道の一里塚が東側の一基が残されています。埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚です。 img_5834.jpg ⑰ゴール:東武スカイツリーライン新田駅
 


2022.3.13
 
メンバー発表会・交流会(オンライン)
日時:2022年3月13日(日)17:00〜18:30
開催方法:Webexミーテイングを使用したオンライン
参加者:25名
内容:
1会員発表会
 
1−1 「生駒越え 残暑のハイキング」
奈良県の生駒から暗峠・生駒山を登り、大阪府の石切まで下山し、歩行中に見た景色及び歴史的遺物について報告して頂きました。

① スタート:近鉄生駒線、南生駒駅→②竜田川・小瀬橋→③暗越奈良街道(奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置されました。現在は、国道308号、奈良県区間が日本の道100選に選定されています。)→④棚田→⑤峠のカフェ(窓際から棚田が見えました。)→⑥暗峠(この付近の路面は江戸時代に石畳となり、この峠は、奈良から大阪へ向かう芭蕉の最後の旅路となりました。)→⑦生駒縦走道(ハイキングコース)→⑧展望台→⑨生駒テレビ塔(1950年より運営開始)→⑩飛行塔(日本最古の大型遊具で2021年に土木学会選奨土木遺産に認定されました。)→⑪生駒ケーブル生駒山上遊園地駅→⑫近鉄旧生駒トンネル(近鉄の前身である大阪電気軌道により1914年に開通、日本発の標準軌複線トンネルでした。断面が小さく大型車両が運行できず輸送力の支障となっていたために、1964年新生駒トンネルが開通しました。)→⑬道路旧近鉄奈良線→⑭ゴール:近鉄奈良線、石切駅
 
1−2 「拡がる地理の愉しみ〜4つのアプローチ、品川などの例」
発表者の住居地の品川について、以下の4つのアプローチに基づき地理的考察を語って頂きました。
①地質・地形
・下末吉面と武蔵野面(目黒川河口部、源流部)
・分水嶺、水系バーチャルツアー
②政治・経済・文化
・品川の政治経済史
③行政区域・地名
・支配別町割、支配、朱引、墨引
・猟師町名主宅の発見
・武蔵国22郡の維新10年
④土木・建築・測量地図
・消えゆく「江戸町」と品川宿、十八門前、猟師町
・京浜電車の進出、字八ツ山消滅
 
2 連絡事項・交流会
 
2−1「4月の草加巡検」お知らせ
以下の日程及びテーマで巡検開催予定です。
4月16日(土)12:30〜16:30
集合:東武伊勢崎線 草加駅 解散:東武伊勢崎線 獨協大学前駅
テーマ:草加の今 日光街道宿場町から住宅都市・工業都市・学園都市へ
 
2−2「カルチャーセンターや大学公開講座で地理を学ぼう」
コロナ禍で、カルチャーセンターなどで地理関連の公開講座も自粛されていましたが、今春より、オンライン講座に加えて、教室及び現地講座も再開されています。この機会に、地理を学ぶために、どのような講座が開催されているのか、加えて講座を探す方法についてまとめて頂きました。
・大手のカルチャーセンター(朝日/よみうり/NHK/毎日)
・地域の地方紙・地元のカルチャーセンター
・大学公開講座
・地方紙の主催する講座
・デパートや大型店の主催する講座
・大学・高専・高校の公開講座
また、以下のサイトで、検索可能です。
(URLアドレスをクリックするとサイトにリンクします。)
① カルチャーセンターweb東京(https://to-cul.jp
② 全国民間カルチャー協議会(http://www.culture-center.gr.jp
③ セカンドアカデミー(http://www.second-academy.com
④ 公開講座com (https://www.kokaikoza.com
 

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